板垣武四 いたがき たけし

大正5年2月13日―平成5年8月12日 77歳没

上川郡和寒町出身 
東京帝国大学法学部卒

戦後3代目札幌市長 

札幌雪まつりは昭和25年に第一回が開催されます。
同じ大通公園で開かれたのですが、誰が開いたイベントだったのか知る人は少ないと思います。
現在の札幌の街をつくったのは、戦後公選となって三代目の板垣武四と言っても過言ではないでしょう。
旭川の五十嵐広三といい、組織からはみ出した人の方が街づくりに適しているといえます。

生い立ち

大正5年、小さな呉服屋を営む板垣家の13人兄弟の11番目として、上川郡和寒町で生まれました。
小学4年の時に、2番目の兄が病で亡くなり、その3週間後に母が他界します。
四男坊の武四の環境は一変し、父が不憫に思い再婚しますが、なつくことができず札幌にいる16歳年上の兄のもとに引き取られます。
札幌一中(南高の前身)4年の冬に、兄から北大受験を強いられます。しかし、本人は法律を学ぶために東大を受験したかったのですが、世話になっている手前告げることができません。16歳で北大予科に合格しますが、兄に無断で北大を退学し、姉の紹介で東京の知人のもとに書生として住み込みを決めます。兄は烈火のごとく怒り、絶縁状態となりました。

こうして始まった東京の受験生活は3年目の昭和13年、ようやく東大を合格となります。家出をして6年ぶりに兄に会いに行き、恐る恐る訪ねると「俺はとっくの昔にお前を許していた」と合格を祝してくれました。
それから4年後、昭和16年の第二次世界大戦突入直前、武四は東大を卒業し我が国最大の軍需産業である三菱電機・神戸製作所に就職します。
この頃結婚しすべてが順調でしたが、神戸空襲によってすべてが焼け野原となってしまいます。
エリート社員の人生を捨て、藻岩山や手稲山があるふるさとの札幌に戻り復興させる決意をします。敗戦から3か月後の昭和20年11月、29歳の武四は妻を伴い札幌に戻りました。
ここから45年間に渡る板垣武四の札幌街づくりが始まります。戦後処理と市民の暮らしを一刻も早く戻すため、札幌市役所は職員を採用しており板垣は合格します。

札幌職員としてスタート

最初の仕事は秘書課長。札幌市長高田富與(1947年~1959年)の身辺警護の業務から、スケジュールづくりでした。こうして、戦後初の公選による高田市長と原田与作助役(二代目市長)の間近で市政執行の姿を見ることになりました。その後、経済部長と札幌観光協会理事に就任します。観光といっても敗戦が色濃く残っており、食料や燃料不足で娯楽どころではありません。そのようなときに、映画館で小樽の子どもたちが校庭の雪を固めてノコギリで刻んで雪像を作っている映像を見ました。
これが国際的イペントとなる「さっぽろ雪まつり」の発想原点でした。
ところがすぐに問題に突き当たります。肝心の雪像を誰がつくるかということです。そこで相談をしたのが中学や高校の美術教師でした。
昭和25年「第一回さっぽろ雪まつり」は、美術教師の指導のもとに、中学・高校生らが「ミロのヴィーナス」などの雪像づくりに取り組みました。
そうして、事務局長として壇上に立ったのが板垣で、高らかに開幕を宣言。
市民像のほか、犬橇レースやアクロバット体操、スクエアダンス、歌謡コンクールなど、様々なイベントが開かれ5万人もの観衆をあつめました。

板垣が助役に就任したのは昭和31年40歳、異例のスピード出世。
頭の回転が速く、勘も鋭いことから「カミソリ」のあだ名が付けられた板垣は助役を就任。ここから首脳陣として本格的に参画します。3年後には高田市長が退任し、上司であった原田与作が市長に就任(1959年~1971年)。
原田の市長就任中に、冬季オリンピックの招致成功がありました。全国4番目となる地下鉄建設などのオリンピック関連の建設事業。新庁舎や地下商店街の建設、上下水道の施設拡大といった、今日の近代都市の姿になるための基礎作りが始まったのです。しかし、オリンピックが近づくにつれ、原田の健康状態は悪化、そのため助役の板垣が市長代理としてオリンピック総会にも出席することとなります。そして昭和45年、原田市長はついに引退を表明します。原田は、後任に板垣を指名したのでは反発する者も多く出ると思い、市長は市民が選ぶものと報道陣に話します。

出馬すべきか板垣は迷いましたが、立候補を決意。
しかし、日ごろの冷静な性格が災いし、選挙では「冷たい人間」という風評被害を受けます。
そうして、冬季オリンピック開催の一年前、昭和46年55歳にして戦後3人目の札幌市長に当選しました。市長就任と同時に札幌の人口は100万人を突破。
どの事業も助役時代からの継続でしたが、今度は最高責任者として執行していかなければなりません。マスコミから「すっとび市長」とニックネームをつけられるほど、よく働きました。
こうして迎えた昭和47年2月3日、アジア初の開催となった札幌冬季オリンピックで聖火点灯式の挨拶を市長として迎えます。

オリンピックの興奮冷めやらぬ4月に、札幌市は全国7番目の政令指定都市になり大都市の仲間入りを果たします。このころから板垣はしきりに「人情の町へ」という言葉が出るようになりました。
都会砂漠にならないように文化の町にしなければならない。
各区に区民センター・図書館・体育館をつくり、豊平環状中央分離帯にりんごの木を植え、緑化事業も推進し、百合が原・平岡・モエレ沼・前田地区に公園を建設。全国初の公立人形劇場、こぐま座のオープン。
壮大なアートパーク・芸術の森の建設。世界の若手音楽家の育成事業・pmfの開催。今では100冊を数える札幌文庫づくりの提唱。そうして両親を早くに亡くした板垣ならではの発想で福祉の充実。

市長選に5回立候補し札幌の発展に大きな足跡を残し平成3年5月、75歳で後任の桂信雄にバトンを渡し45年間の市政生活を終えました。その2年後に77歳で人生にもピリオドを打ちました。