新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)

1862年(文久2年)~1933年(昭和8年)享年72歳

昭和59年11月1日、五千円紙幣の肖像に採用

 

 

もう20年以上も前のことですが台北を訪れた時に、台湾の高齢者が大変友好的なのに驚きました。その時に「ニトベ」と日本語で話しかけられたことを不思議に思ったことがありました。五千円札で知った新渡戸稲造ですが、この人について何を知っているのかと言われると全く無知です。いろいろ調べてみると北海道の歴史にも大きく関わった人であることが分かりました。
新渡戸稲造はアメリカの経営学組織論でいえば、社長を牽引するエジュケーターの役割だったのではないかと思いました。


生い立ち
明治維新の6年前に現在の岩手県盛岡市に盛岡藩士の三男として生まれました。稲造の名は祖父が十和田市の三本木原を開拓した人で、不毛の地から米がとれ始めたことを記念して孫に「稲造」と名付けました。家には西洋で作られたものが多くあり、教育熱心な母親によって英語も学び西洋への憧れを抱いたといいます。やがて盛岡藩校「作人館」に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習います。明治4年、9歳の時に東京の叔父の養子となり行くことになります。これは偉い人の集まる東京に行って自分は偉い人になってみせると母親を説得しました。

上京すると旧南部藩の経営する英語学校に入りました。成績はいつも一番。叔父は日本で最もレベルの高い東京外国語学校に入学させます。12歳の時で入学年齢ぎりぎりでした。
明治9年、北海道開拓使長官黒田清隆はアメリカの大学をモデルにとした農学校を札幌に設立。クラーク博士に経営を任せます。農業の学校は日本で初めてのもので、自分の名前を付けてくれた祖父は明治天皇から「子々孫々農事に励めよ」のお言葉をいただいたことを誇りに思い農業経営学や農政学を専攻しようと考えていました。
教授は外国人のため、政府は東京外国語学校の優秀な生徒たちに募集をかけました。当時唯一の大学であった東京大学の進学を控えていましたが、迷わず札幌農学校に応募し合格。しかし、年齢が若いということで一年待たされ、15歳の時二期生として入学しました。そのために、生涯の友となる内村鑑三や宮部金吾と同級生になります。

当時の札幌は人口2千人程度。農学校のある場所は開拓使官舎が点在する寂しいところでした。
成績は、英語だけは群を抜いた成績で卒業し、開拓使御用掛として採用され、畑の作物を食い散らすイナゴの異常発生の研究等をしていました。しかし、19歳の学生で実務経験のない者よりも経験のある現場監督が必要な時代でした。そこで、新渡戸は開拓使庁を辞めて東京大学で更に勉強を積むことにしました。ところが、入学してみるとレベルが札幌農学校よりも低く「日本で最高の学者になってもたかがしれている」と考え22歳(明治17年)の時、「太平洋の架け橋になりたい」と米国に私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学しました。後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会います。米国で日本についての講演をした際に、聴衆の一人であった彼女が稲造を見初めて告白をしたといいます。

3年後、札幌農学校の助教授に任命されたため「農政学」をもっと詳しく学ぼうとドイツに向かいました。ドイツで3か所の大学で学び博士号を取得し留学生活を終えて帰国することになりました。まっすぐ日本に帰らず米国に立ち寄り、フィラデルフィアの大富豪の娘に結婚を申し込みます。24歳の時に知り合ったメアリー・エルキントンを連れて日本に帰ってきたのは明治24年、29歳の時でした。

札幌農学校は、明治15年に開拓使が廃止されてからは、ようやく存続している状態でわずか8名の教授でした。週20時間の授業を受け持ちます。ドイツ帰りの新知識だけではなく、人間としての生き方を教える授業は、いつも満席でした。新渡戸の活動は、札幌農学校だけにとどまらず、現在の北星学園であるスミス女学校、私立北鳴中学校でも教壇に立っています。
これらの学校で新渡戸は、知識教育よりもむしろ人格教育に重点をおきました。「人物さえ高尚ならば、たとえ学問がなくても恥ずるに足らず、成績にとらわれることなかれ」と学生達を戒め、また書物に過信せず、教科書より質問によって学問を吸収させる方法をとりました。海外を見てきた新渡戸にとって、日本国民は本を信じすぎて自ら判断する力に乏しく、知識を得ても活用の力のないことを嘆いていたからです。

 

更に、明治26年、妻の実家から送られてきた遺産をもとに、夜学校を札幌に開設しました。貧しい家庭の子や、日中働いているため昼間の授業を受けられない人に、無料で学問を教えたいという考えでした。当時、最も貧しい地域だった豊平橋近くのキリスト教日曜学校の校舎を買い取り、ここで夜、新渡戸の空いている時間を使って教えました。遠友夜学校と名付けました。論語「朋、遠方より来るあり、また楽しからずや」にちなんでいました。

しかし、4つの学校を掛け持ちしての激務は新渡戸を病気に追いやります。診断は脳神経衰弱症、妻の健康もすぐれないため、7年間働いた札幌を去り、気候の温暖なカリフォルニアで療養することになりました。遠友夜学校設立から4年、新渡戸はそれ以来二度と教壇には立つことはありませんでしたが、彼を慕う札幌農学校の生徒たちが後を継ぎ、昭和19年に閉校するまで1千人を越す卒業生を送り出しました。

BUSHIDO

札幌を去ったのちの新渡戸は、72歳で亡くなるまで多彩な方面で活躍します。
静養先のカリフォルニアで38歳の時、名著『武士道』を英文で書きあげます。日清戦争の勝利などで日本及び日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えました。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことで、21世紀に入っても解題書が出版され続けています。

台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に台湾総督府の技師に任命されました。明治28年の日清戦争で日本領になった台湾は、日本政府が財政の独立をさせようとしていました。そのため、産業の復興をはかろうと新渡戸が選ばれたのです。新渡戸は台湾を視察した結果、「台湾の農業革命は、砂糖の生産量を多くすれば発展できる」と断言。この助言で、台湾は砂糖の世界五大生産地として定着しました。台湾糖業博物館(高雄市)には「台湾砂糖之父」として新渡戸の胸像が置かれています。
大正3年、第一次世界大戦時には、国際連盟事務次長として7年間ジュネーブで国際平和のために努め、更に日米和平のために昭和6年米国で講演をし続け、当時の大統領フーバーにも会って平和解決の道を探し求めました。

昭和7年、カナダのバンクーバーで病気静養中、そのまま帰らぬ人となりました。「ニューヨークタイムズ」などの欧米新聞は「日本の自由主義の父死す」と書いたといいます。

ページが足りないので書きませんでしたが実に多くの事を成し遂げた人で一万円札でも良かった人です。