本間 泰蔵 (ほんま たいぞう)

1849年(弘化4)~1927年(昭和2)享年78歳

「国稀」「北海鬼ころし」といえば北海道の酒飲みは知っている銘柄です。
日本最北の蔵元、増毛町の国稀酒造です。
明治15年に増毛郡役所に酒の仕込み届けを出したのが本間泰蔵でした。今年で創業140年、四代目林眞二(妻花織)になります。

日本海が鰊の漁場として賑わった明治期に、ヤン集たちに飲ませるために網元自ら酒を造り始めたのが始まりでした。
創業者本間泰蔵が作り出した手法を、現在も守り続けています。
明治中期の増毛は、郡役所が置かれ宗谷・北見地方も統括していました。
人口は1200人ほどでしたが、鰊漁がはじまる春ともなればヤン衆が1300人も出稼ぎにやって来て活気に溢れていました。暑寒別岳など険しい大自然が背後に迫ることから「袋小路の終着駅」とも呼ばれていました。(図ー北海道の地酒は開拓博物館から)

「丸一本間合名会社」及び「国稀酒造」の創業者であった本間泰蔵は佐渡の仕立屋の三男として生まれます。裕福な生家でしたが、成長するにつれ家督を継げないため自分の道を切り拓かなければなりませんでした。
18歳で明治維新を経験し、24歳(明治6年)の時についに家を出る決心をします。
泰蔵が北海道の土を踏んだのは小樽でした。当時の小樽は5千人の人口。札幌は開拓がはじまったばかりで300人程度の時代ですから大変驚いたといいます。事業をはじめるにあたり、奉公に入り商人としての腕をみがこうと慣れ親しんだ呉服店の門を叩きます。
それが丸一松居呉服店でした。長年培った呉服の知識、父から体得した商人としての心構えに店主も一目置き、入店後まもなく番頭を命じられます。

増毛へ

春のこと、主人から「反物を持って増毛に行ってほしい」と行商を頼まれます。風呂敷一杯の反物を背負って向かいました。増毛は懐かしい佐渡の風景と似た大自然が広がる街で、泰蔵はすぐに気に入りました。主人の予想通り反物は荷物をほどく暇もなく、すべて売り切れてしまいました。鰊漁の景気の良さに、ただただ驚くばかりで、大手を振って小樽に帰り、その後も何度か増毛に足を運びました。しかし、丸一松居呉服店の主人は鰊景気だけで売れるものではないと思っていました。明治8年、丸一呉服店は主人の都合で店じまいをすることになります。閉店最後の日、主人に呼ばれて次のように言われました。
「2年間の短い間だったが、よくこの店を支えてくれた。私からの気持ちとして、これを受け取って欲しい」といって店に残っているすべての商品(三百円相当)を渡されました。この金額は一人前の男の3年分の給料でした。ただ驚くばかりでしたが、主人は「お前を見てきたが必ず商売は繁昌する。それを見込んでの話だ」松居呉服店の主人から義理と人情を学んだ泰蔵は、譲り受けた反物を持って、鰊景気に湧く増毛町へ移り住みました。明治8年、26歳でした。

主人の予想通り、呉服店の売り上げを伸ばし、わずかの間で財を成した泰蔵は、明治13年、石造りの店舗や呉服を入れる白壁の土蔵を建てました。(この建物が現在、北海道有形文化財に指定されています。)
明治15年、社名を「丸一本間」と名乗りました。「丸一」は丸一松居呉服店からいただいたものでした。

酒造りに進出

国稀

泰蔵は、増毛の第一産業である鰊漁業を始めました。全くの素人でしたが、網元として多くのヤン衆をまとめる立場に立ちます。そうして、ヤン衆たちが春を心待ちにするほどの楽しみをつくってあげたい。それが、泰蔵らしい発想で「酒」造りでした。
日本酒は、江戸時代から松前・江差などで濁り酒が造られており、明治5年頃には札幌でも数軒酒蔵が開かれていました。酒造りに欠かせないのが水でした。
増毛は、北前船がこの地で水の補給をして航海するほどの地で、その水が暑寒別の伏流水でした。

明治15年、泰蔵33歳。さっそく酒の仕込みに取り掛かります。最北の造り酒蔵の誕生でした。酒は水の良さは当然ですが一に麹、二に酵母、三に温度と言われています。仕込みが行われる11月から4月まで、増毛の雪が空気中のチリを浄化し、冬の寒い空気が酒の温度調節に大きな役割を果たしました。丸一本間で造られる酒は、年々質を上げていき、泰蔵は、この酒を「国の誉」と名付けて売り出しました。泰蔵は、春は網元として、秋から冬にかけては酒造りの日々でした。
酒の自家醸造が軌道に乗ったことから、旧商家丸一本間家の場所に酒蔵を建設します。店舗部分は木骨石蔵造で、新潟から呼び寄せた宮大工が建設したといいます。事業の拡大と共に増築されてきた建物群は明治14年から建設を始め、明治35年に落成しています

多角経営

明治20年になると海運業に進出します。38歳でした。増毛は地理的条件から陸運よりも海運に重点を置いていました。従って運賃の高さに加えて荒波ともなれば欠航し物資不足は住民の悩みでした。更に、船の運行が難しい冬の期間は物価が跳ね上がり、みそ醤油までが手に入らなくなります。泰蔵は30トンの樺戸丸を買い付け、地元中心の海運業を始めます。船をどんどん買い入れ12隻となり、商品取引は天売・焼尻・利尻・礼文、また樺太やオホーツク沿岸にまで展開することになりました。


日露戦争

明治35年、増毛町民が大勢入隊する旭川の第七師団が日露戦争に出征することになりました。203高地で多くの戦死者を出します。泰蔵は、彼等のために慰霊碑を建てようと立ち上がります。町民から寄付を募り、乃木希典元陸軍大将に碑文を書いてもらうため、明治40年、58歳の時に東京へと出むき乃木将軍に謁見しました。緊張しましたが、その紳士的態度と人格のすばらしさで大きな感銘を受けました。泰蔵は大正8年、乃木希典の「希」の一字をもらい、「国にとって稀な良い酒」という意味を込めて「国の誉」を「国稀」と改名したのです。

常に、先を見て新しいことに挑戦をしました。明治から大正にかけては、外国産米、道産米の研究もし、米を安く手に入れる方法を考えました。酒米を蒸す燃料も、当時主流だった薪を石炭に変えて燃料費を安くしました。大正5年には、増毛に初めて火力発電による電灯が灯されましたが、それを提案したのも泰蔵でした。

佐渡から単身で小樽の呉服店へと渡り、商いを学ぶと、1876年(明治9年)に増毛で呉服雑貨店を開業、さらに、ニシン漁の網元、 不動産業、海運業といった多角経営により、天塩国随一の豪商の名をほしいままにしてきました。

小樽の地に上陸してから54年目の昭和2年、多くの人々に惜しまれながら永眠しました。