吉葉山 潤之輔

1920年4月3日 – 1977年11月26日)

北海道厚田郡厚田村(現:石狩市厚田区)出身の元大相撲力士。
第43代横綱。
本名は池田 潤之輔(いけだ じゅんのすけ)

生い立ち

本名池田潤之助は大正9年、厚田郡厚田村(現:石狩市厚田区)ニシン漁の網元で、8人兄弟の三男として生まれました。当時の池田家は20人ほどのヤン衆を使う富豪で何不自由なく育ちます。幼少より身体が大きく、網元を営んでいたことで家族全員が怪力でしたが、潤之輔少年は特に体格も大きく、力も強かったといいます。
しかし、6歳の頃からニシンの不漁が続き、家業が倒産、更に母親も亡くすという不運が続きました。
潤之助は、苦しい家計を助けるために、小学6年生の時に道路作業の重労働の仕事を買って出ます。すでに体格は大人顔負け、力も人一倍で、人々を驚かすような働きを見せました。当時、大人の日給が1円でしたが、潤之助は1円30銭をもらう仕事ぶりでした。

帯広の勤め

昭和10年春、15歳。尋常小学校高等科を卒業し、帯広の製糖会社に臨時工員として勤めました。しかし、学歴が無いことで技術を習得しようと一念発起し、実家に無断で会社を辞めてしまいました。
昭和13年1月13日、雪の降る朝、17歳の潤之助は帯広駅を発って東京へ向かいました。ところが、この終点上野駅で運命は大きく変わります。
夜行列車で上野駅へ到着すると二人の若い力士が、体の大きな潤之助を新弟子と間違えてしまったのです。潤之助は、必死で抵抗。しかし、二人は全く耳をかさず、無理やり高島部屋に連れて行きました。部屋に到着してから人違いだったことが判明。力士から謝罪を受けましたが17歳で身長179センチ、体重79キロの大男を親方はオイソレと手放すわけにはいきません。
夜が明けると、潤之助は身代わり入門の新弟子となり、四股名は北海道製糖に因み「北糖山」でした。

序二段のころ 19歳

人違いから入門した異色の経緯でありながら、順調に出世していきます。
色白で均整のとれた体格に、当時「旗本退屈男」で一世風靡した映画スター歌舞伎の市川右太衛門似の美男子で、明るい快活な性格に人気があがりました。
しかし、入門した年(昭和13年)の11月に悪性の盲腸炎を患ったことで生命の危機に晒されましたが、当時の名医・吉葉庄作による大手術で全快します。後に、この恩に報いるべく四股名を「吉葉山」に改名することとなります。

翌、昭和14年に復帰した春場所に、はじめて番付に「北糖山」の名が乗りました。序の口東一枚目で、2勝5敗。負け越しましたが、見事に相撲を取りきることができ、場所後四股名を「吉葉山」と改名しました。
その後、トントン拍子に昇進。昭和17年、入門4年目の22歳の夏場所では、東幕下筆頭で7勝1敗で幕下優勝を遂げました。

召集令状

幕下優勝を果たして十両昇進が目前だった昭和17年に召集令状が届きました。中国の湖北省へ派遣され補充兵として部隊に編入されます。(21歳)
本来力士は招集されないものでしたが、戦局の悪化から、やむなく力士も軍隊に入ることとなったのです。そのため、事実は国民に知らされず吉葉山は番付から消えただけの形となりました。吉葉山を含め、相撲界から48人が応召。吉葉山は、筋肉質のソップ型力士でしたから重宝され5年間も土俵を離れることとなりました。
戦地で銃弾2発を浴び、その内1発は貫通し、もう1発は体内に残留しました。日本国内では吉葉山の戦死を伝える情報が流れ、高島部屋の力士名簿からも除籍されました。

しかし、1946年(昭和21年)にようやく復員します。まず厚田村の実家に向かい父や母に生きていることだけは伝えます。異常なほどの痩せた体を見て「そんな体では相撲ができるわけがない」と一斉に反対しましたが、吉葉山には密かな自信がありました。それは5年前、出征前の出稽古で、大横綱の双葉山をうっちゃっりで打ち負かしたことがあったのです。

高島部屋では、銃弾を受けて死亡説まで流れていた吉葉山の籍は外されていました。それが、すっかり痩せて部屋に帰ってきたときは玄関番に幽霊と間違われたほどでした。
復員後は激減した体重を元に戻すべく、胃袋との渾名が付くほどに食事を摂り、失われた4年間を取り戻すべく必死に稽古に励みました。
1947年(昭和22年)6月場所では、東十両4枚目の位置で土俵に立ちました。27歳でした。

その頃の相撲界には、彼が出征した年に初土俵を踏んだ福島町出身の千代の山が、すでに幕内上位にいて、その後昭和26年に、道産子初の横綱になりました。その他、38歳で三役に復帰した名寄出身の名寄岩、後にプロレスラーに転じる力道山、太鼓腹の美しい鏡里など個性豊かな力士がそろっていました。

昭和25年、春場所幕内東3枚目で、佐賀ノ花、増位山、汐ノ海、千代の山の4大関を総なめにして、10勝5敗の成績で殊勲賞を受けました。
続いて夏場所幕内東一枚目で、10勝5敗で2度目の殊勲賞。秋場所小結を飛び越えて東の張り出し関脇で、13勝2敗で、3度目の殊勲賞。

関脇で迎えた1950年9月場所は13勝2敗の好成績を挙げましたが、優勝決定戦では本割でも敗れた照國に再び敗れました。
新関脇での13勝は15日制となって以降は、五ツ嶋奈良男に次いで2人目で最多でした。(琴欧洲勝紀、照ノ富士春雄も達成)。
翌場所も13勝2敗でしたが、照國が全勝優勝を果たしたために優勝賜杯を抱くことはありませんでした。しかし、関脇で2場所連続13勝が大いに評価されたことで、場所後に鏡里喜代治と共に大関へ昇進。

皆勤すれば必ず2桁勝てる実力があることから早期の横綱昇進が期待されましたが、優勝が無いことが災いして届きません。
1953年(昭和28年)5月場所は14勝1敗でしたが、前頭6枚目の時津山仁一が全勝優勝を果たします。このように、吉葉山の土俵人生には尋常ではない不運と悲劇が纏わり付いていました。

雪の全勝行進(第43代横綱吉葉山誕生)

昭和29年1月場所は、いままで好成績を挙げていながら優勝できなかった鬱憤を存分に晴らすかのように、15戦全勝でついに悲願だった初の幕内最高優勝を果たしました。
大雪が降る中で行われた優勝パレードは「
雪の全勝行進」と呼ばれ、全国から集まった相撲ファンが大喜びで吉葉山を見送っていました

吉葉山の土俵人生を襲った悲運を乗り越え、場所後に横綱昇進が決定されました。なお横綱土俵入りは、当時から継承者の少なかった不知火型を選択し、指導は高島部屋と同じ立浪一門の立浪が行います。

現役引退

新横綱となった昭和29年3月場所は、急性腎臓炎・糖尿病で初日から全休となります。その後も左右両足の捻挫、銃弾貫通による後遺症と足首に残ったままの銃弾の影響で思うように白星を稼げず、横綱時代では一度も賜杯を抱くことが出来ずに「悲劇の横綱」とも言われました
それでも、市川右太衛門に勝るとも劣らない美男力士として人気が高く、従軍・戦傷の経験から元軍人や傷痍軍人からも人気がありました。

昭和33年1月場所、絶不調の吉葉山は中日を終えて3勝5敗となり、そのまま現役引退を表明。なお、同年1月場所で5勝3敗だった鏡里は「10番勝てなかったら辞める」と発言、千秋楽を終えて9勝6敗だったため、偶然にも2人の引退場所が重なりました。

宮城野部屋

明武谷

現役時代から一代年寄制度を利用して、総檜造の「吉葉山相撲道場」を設立。引退後には宮城野の名跡を譲られ、部屋を宮城野部屋と改称。
部屋の師匠として明武谷力伸・陸奥嵐幸雄・廣川泰三を初めとする多くの関取を育てました。部屋付き親方がいなかったため一時たりとも弟子から目を離せませんでした。
後に白鵬翔を育てることになる竹葉山真邦も吉葉山生存時の入門でした。

1977年(昭和52年)11月26日、腎不全のため東京都内の病院にて57歳で死去。

孫弟子・白鵬

吉葉山が亡くなってから約30年経った2007年5月場所後、白鵬が大関で2場所連続優勝を果たしたことで第69代横綱に昇進、横綱土俵入りの型は吉葉山が行った不知火型を継承。
白鵬は竹葉山の弟子であり、吉葉山の孫弟子に当たります。同年6月1日、白鵬が明治神宮で行った奉納土俵入りでは、吉葉山が現役当時に着けていた三つ揃えの化粧廻しを使用していました。