テオドール・エードラー・フォン・レルヒ

1869年8月31日 – 1945年12月24日
オーストリア=ハンガリー帝国の軍人。
最終階級は陸軍少将。

日本にスキーを伝えた人。
旭川でもスキー講習会を開き、倶知安では羊蹄山を滑りました。

生い立ち

1869年(明治2年)、オーストリア=ハンガリー帝国を構成しているハンガリー王国北部のプレスブルク(現スロバキアの首都ブラチスラヴァ)にて、軍人の家庭に生まれました。「フォン」は貴族の称号で、実家は由緒ある家柄でした。
父の影響で、レルヒは高校を卒業後、20歳の時に士官学校に入学。1891年少尉に任官。奇遇にも、父が勤務していたプラハの歩兵第102連隊に配属先され、配属当初から知的才能、責任感、知識、指導力に秀で、上官や部下への人当たりもよく、勤務評定で高い評価を得ていました
参謀将校から大尉、少佐にまで昇格。彼は軍人として優秀であったばかりでなく、スポーツの万能選手で、フェンシング・水泳・水球・乗馬・陸上なども見事にこなし、登山にも興味を持ち「国家森林監督官」の称号を受けていました。

31歳の時、赴任先のウィーンへ転勤になったのをきっかけにスキーを始め、アルペンスキーの父と言われるツダルスキーに師事しました。
1903年になると南チロルでの国境警備に派遣されます。この環境はレルヒにとってスキーの研究に絶好の地で、戦争省の建物が道を挟んでアルペンスキークラブ事務所と隣り合っていたことで、スキーに情熱を燃やす要因となりました。
1906年2月、山岳演習を行っていた騎兵部隊が雪崩に遭遇。スキーを使って救出に参加したレルヒは、スキーの重要性を軍高官らに説いて回りスキーの導入を正式に決定。1908年2月、チロル地方のベックシュタイン山麓で最初の軍隊によるスキー講習会が開催され、レルヒは講師として指導に加わりました。

八甲田雪中行軍遭難事件

1902年(明治35年)1月、日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難し、訓練への参加者210名中199名が死亡。日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出し、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故でした。
この事件は、全世界に大きな反響を巻き起こしました。北欧のノルウェー国王は、「スキーを利用していればこのような事故を防げたのではないか」と考え、スキーを2台、陸軍省に送ってきました。しかし、見たこともなく、使い方もわからないスキーを、誰一人試みようとする者はおらず、倉庫にしまいこんでしまったのです。

 

来日

日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍研究のため、1910年11月30日に交換将校としてレルヒが来日しました。

日本スキー発祥地金谷山

八甲田山の事故をおこしたばかりだったこともあり、日本陸軍はアルペンスキーの創始者ツダルスキーの弟子であるレルヒのスキー技術に注目。

その技術向上を目的として新潟県中頸城郡高田(現在の上越市)にある第13師団歩兵第58連隊の営庭や、高田の金谷山などで指導が行われます。

1911年(明治44年)1月12日、歩兵第58連隊の営庭を利用し鶴見宜信大尉ら14名のスキー専修員に技術を伝授したことが、日本での本格的なスキー普及の第一歩とされています。

 

 

1912年2月、北海道の旭川第7師団へのスキー指導のため旭川市を訪問。

倶知安町

4月15日21時30分、北海道でのスキー訓練の総仕上げとして羊蹄山に登るため倶知安町に到着。

レルヒ中佐の碑
明治45年4月に旭ヶ丘スキー場でスキー術を発表したことから、スキー場の発祥記念に碑を建てました。

16日午前5時の出発を予定していたが、雨のため1日延期し17日に羊蹄山登山を行い、また羊蹄山の滑走も行いました。

年明けの1913年1月に帰国した。

なお、レルヒは1本杖、2本杖の両方の技術を会得しており、日本で伝えたのは杖を1本だけ使うスキー術。これは、重い雪質の急な斜面である高田の地形から判断した結果でした
なお、ほぼ同時期に普及した札幌では、2本杖のノルウェー式が主流となっており、1923年に開催された第一回全日本スキー選手権大会では、2本杖のノルウェー式が圧倒。レルヒが伝えた1本杖の技術は急速に衰退しました。

1945年12月24日、連合軍による軍政期中のオーストリアで糖尿病のため死去。76歳没。ウィーンの共同墓地に葬られました。

現在、新潟県上越市高田の金谷山には日本スキー発祥記念館が設置され、レルヒの業績を伝えています。