ホーレス・スミス・クラーク

1826年7月31日~ 1886年3月9日 

アメリカ人の教育者。化学、植物学、動物学の教師。農学教育のリーダー。
1876年(明治9年)札幌農学校(現北海道大学)開校。初代教頭。
専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした

 

生い立ち
      
アメリカ東部マサチューセッツ州の小さな村に医者の子として生まれました。
当時のアメリカはイギリスから独立して50年が経ち、新しい土地を求めて人々が開拓に来ていた時代です。
高校をトップの成績で卒業し、名門といわれたアマースト大学に進み、25歳の時にドイツの大学に留学。ここで博士号をとって帰国すると大変な歓迎を受け母校アマースト大学の教授に任命されます。大学で博士号を持っているのはクラークだけでした。(当時、アマースト大学に在学していたのが、後の同志社英学校創設者新島襄でした)

日本が明治維新を向かえた1868年、クラークは当時アメリカに2校しかない農学校づくりに専念します。国の支援を受けてマサチューセッツ州に、アメリカで三番目となる農学校が作られます。この三代目にクラークは学長として選ばれました。
北海道の首都として新しい町づくりが進められていた札幌は、人口2600人程度でした。
明治9年に将来の北海道開発の後継者や人材育成を目的として東京に「札幌農学校」が設立され、模範にしたのがマサチューセッツ農科大学でした。開拓使長官の黒田清隆から来日の要請を受けたクラークは、これに喜んで応じます。

クラークに2年間の設定をしましたが、学校の責任者でもあり空けることができず「他の人が2年でやることを、私は1年でやってみせます」として49歳で来日します。
明治9年6月、横浜に着いたクラークの最初の仕事は、学生として募集した若者(東京英語学校及び開成学校より応募)をテストすることでした。その結果合格したのは11 人、すでに札幌学校(札幌農学校の前身)から進級を認められた13人と合わせて24名が一期生と決定。入学試験とはいっても、教師がクラークですから英語が最優先であったと思います。

クラークの教育方針は船の中で決まりました

一期生24名とクラーク・黒田清隆は品川を出航し小樽へ向かいます。
学生とはいっても、この時代は元武士の崩れたものもおり、昼間から酒を飲んで騒ぐ者もいました。船の中で、同船した女性を巡って黒田を怒らせてしまいます。黒田は、札幌につくる農学校では、特に道徳教育にも力を入れて指導していきたいと考えていました。
この話にクラークは「道徳教育は聖書を使わなければ絶対にできない」と力説しますが、黒田は「キリスト教は300年に渡って禁止されていた宗教。ましてや官立の学校が聖書を使うなんてできない相談だ」と対立をします。
しかし、クラークは札幌農学校の最初の授業のとき、学生に酒の入ったグラスと英語の聖書に一人一人の学生の名前を書いて渡します。そうして、「ビー・ジェントルマン(紳士であれ!)」と要求しました。

学生たちは英語が分かるとはいえ差があります。
この時の様子を後に学生たちが会報としてまとめたものが、世に出て今日のクラーク伝説となります。
日本には画期的な自由主義の教育方針として、学生たちを虜にします。
しかし、この言葉には前後があり、それを理解せずして日本人は自由主義を放任主義として伝わっていくことになります。
クラークが語った真意は「ジェントルマンたる者は、定められた規則を厳重に守るものであるが、それは規則に縛られてやるのではなく、自己の良心に従って行動するべきものである」でした。
そうして、学生たちに精神の支えとしてキリスト教の信仰を説いたのです。

クラークの強い信念に黒田は、聖書を使った道徳教育を黙認することになりました。クラークは教頭が名目でしたが、実質的には学長で教育課程を4年間、教育内容は農学・物理など西洋の発達した科学を取り入れ、そうして実技を最重点に置きました。
学生たちは、午前は講義、午後は実験や農場での作業、夜はランプの下でのノート整理と超多忙な日課でした。

クラークは教育の中で、学生たちにどんな労働に対しても、それに対する報酬を与えました。1時間の労働に対して5銭払うというものです。働くことと、それから得る報酬の尊さを学ばせたのです。

来日して10か月後の明治10年4月、札幌を去らなければならない時がやってきます。その日の授業はすべて取りやめ、教授や学生たち全員が馬に乗り、シママップ(島松)まで見送りに来ました。

島松駅低所

道路は明治5年に札幌から函館までは開削されており(現在の国道36号)当時は室蘭~森町は船旅でした。

ひとりひとりに力いっぱい握手をすると「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と叫び、さらに言葉をつづけました。

 

 

「not for money, or for selfish aggrandizement not for that evanescent thing which men call fame . Be anbitious for the attainment of all that a man ought to be」
「少年よ、大志を抱け。それは、金銭や欲のためではなく、また、人よんで名声というむなしいもののためであってはならない。人間として当然備えていなければならぬ、あらゆることを成し遂げるために大志を持て」
そして、馬にまたがり、雪のまだ残る泥道を蹴って林の中に走り去りました。
クラークはその後59歳で世を去ります。

この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代もありました。
1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録。

安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表しました。安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、このまま訳すと「この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味になります。
また大島は、先生をかこんで別れがたきの物語にふけっている教え子たち一人一人の顔をのぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。

「では御別れじゃ、元気に暮らせよ」といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、”Boys, be ambitious!” と叫ぶなり、長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消した。
この時に「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説。
また、「Boys, be ambitious」は、彼の出身地のニューイングランド地方でよく使われた別れの挨拶(「元気でな」の意)だったという説もあります。