榎本武揚 えのもと たけあき

1836年10月5日〈天保7年8月25日〉~ 1908年〈明治41年〉10月26日)

御徒町生

日本の武士(幕臣)・化学者・外交官・政治家。
最終階級は海軍中将。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という諺があります。戊辰戦争最後の敗軍の将となった榎本武揚ほど誤解を受けている人はいないと思われます。
歴史小説家はたくさんありますが、榎本はあまりにもスケールが大きすぎて、生涯を書ききれないのかもしれません。また、賊軍の汚名が邪魔をしているのかも知れません。

龍宮神社

竜宮神社境内にある榎本武揚像

小樽に榎本武揚の銅像があります。小樽駅の並びで、三角市場方面に5分ほど歩くと龍宮神社があります。榎本が良く訪れていた神社で没後100年(2008)を記念して式典が行われ、その時に銅像が建てられました。
左手に国際法の「海津全書」、右手に羅針盤を持ち小樽の街と海を見守っています。
(後ろは榎本も出資した函館本線)
どのような経緯があるのか知りませんが、像の前に麻生太郎の植樹があり、この2か月後に総理になりました。
小樽の街は、榎本が新政府から譲り受け旧会津藩士を入植させ、街づくりが行われた所縁の地です。エリアは、今の小樽駅をバックにして左側一帯で、現在ある「都通り商店街」の名付け親でもあります。

 

 

海津全書

榎本のスケールの大きさは「海津全書」にあります。箱館戦争における新政府軍の司令官は、後の開拓使長官になる黒田清隆でした。黒田は尊敬する西郷隆盛から、榎本の偉大さを聞いており五稜郭に再三降伏を呼びかけていました。
降伏した時に、黒田に渡したのがこの一冊の本です。黒田は翻訳を福沢諭吉に依頼しますが、福沢は1ページを開いただけで、これは教科書で教育を受けたものでなければ理解できないと突き返されます。
黒田は、牢獄に監禁され死刑を免れない榎本を解放させるために、丸坊主になって嘆願し、明治5年に大鳥圭介とともに釈放され開拓使に雇用されます。
北海道はお雇い外国人73名の力であらゆる開拓が進みますが、榎本の力が大きかったと思います。何故ならば、榎本は5か国語を話すことができ世界に人脈を持っていたのです。
この「海津全書」は世界の海洋法律で、海の国境を取り決めたものでした。
幕末に軍艦開陽丸の技術指導でオランダに渡った時に、すべてを学んでいました。
新政府は、明治7年に榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、明治8年5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。
この条約によって、1855年の「日魯通好条約」で両国民混住の地とされていた樺太全島はロシア領となり、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となったのです。
現在も北方領土問題はロシアと交渉していますが、榎本のような人材がいなので一向に進展しません。

蝦夷地に独立国

森町・鷲ノ木

榎本は、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸以下8艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出しますが、この時に全世界に向けて独立宣言をおこなっています。
それは、蝦夷地は未開地であるため、この地に新しい国を作るということです。各国は賛同を示し、新政府に旧幕府から依頼を受けていた軍艦を新政府に渡しませんでした。

1868年10月20日箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木(現在の森町)に上陸します。二手に分かれて箱館へ進撃、各地で新政府軍を撃破し10月26日に五稜郭を占領、榎本は11月1日に五稜郭に入城し、12月15日、蝦夷地平定を宣言し士官以上の選挙により榎本は総裁となりました。

開陽丸の座礁・沈没

榎本の最大の誤算は開陽丸の沈没でした。松前藩は新政府軍に付いていたため、土方歳三を応援のため江差攻撃に向かいます。ところが、11月15日暴風雨のため江差沖で座礁沈没してしまいました。開陽丸を失ったことで新政府軍に流れが変わっていき、翌年5月18日に降伏することになりました。
箱館戦争は7ヶ月でしたが、道南一帯が戦場となり数多くの史跡が残っています。しかし、ここでも歴史が風化され、石碑なども藪のなかに埋もれて行っています。

1975年(昭和50年)に、江差町教育委員会が「開陽丸発掘調査プロジェクト」を立ち上げ、海底から3万2千点もの遺物を引き揚げに成功します。
更に、オランダに残されていた開陽丸の図面を基に実物大で復元し、江差湾に資料館とし船内に、実物大の人形を据えて当時の姿と遺物が展示されています。