新島 襄

天保14年(1843)1月14日―明治23年1月23日没

江戸の神田生まれ、安中藩士・新島民治の子(姉4人)
 

新島襄は同志社大学の創立者ですが、北海道にゆかりの人でもあります。
NHK大河ドラマ「八重の桜」で紹介されていましたが、国禁を犯し出国したのは箱館でした。
函館駅前から市電でドッグ方面の「大町駅」で降り「緑の島」橋の手前に「新島襄 海外渡航の地」碑が建っています。
トップ写真が海外渡航の地です。
北大のクラーク博士は、新島が紹介した人物で、クラークは日本を離れる前に新島と会っていました。

生い立ち

江戸屋敷、安中藩士(現在の群馬県)の新島民治の5男として生まれます。
明治維新まで後25年の歳月があります。

安政6年(1859)箱館が開港しますが、日本は鎖国の中に閉ざされた夜明け前。
蘭学を学び、時代の動きに関心を持ち、何とか外国に行きたいと思っていました。しかし、横浜や長崎からの出国は難しく、手薄な箱館が脱出のチャンスと思っていたのです。
そのような時に、藩から「箱館で一年修学」の許可を得ます。当時箱館には五稜郭を設計した武田斐三郎(たけだあやさぶろう)の「諸術調所」があり全国から優秀な人材が集まり学んでいました。
しかし、到着すると武田は本州に出張中で不在でした。

三人の協力者

新島は箱館で3人の協力者に出合うことができます。
この3人に出会わなければ、出国は無理でした。
まず神明社主「沢辺琢磨」と知り合ったことで運命が開けてきます。
更に、沢辺の紹介でロシア人宣教師「ニコライ」邸の日本語教師として住み込むことになります。
ニコライは、函館観光名所であるハリスト正教会の宣教師で、彼は箱館戦争の時にも教会の地下に戦士をかくまう大活躍をした人物です。

沢辺琢磨について

沢辺琢磨(さわべたくま)は坂本龍馬の従兄弟

1835年、土佐藩士の生まれで本名は山本琢磨。
従兄弟に坂本龍馬、武市半平太がおり龍馬とは同じ歳。3人は幼いころから遊び学んだ仲。19歳の時、江戸の道場にいる龍馬から便りがあり、江戸で剣術修業に励みます。ところが、酒癖の悪い仲間が乱暴を働き、懐中時計を質屋に持って行った時に帳簿に琢磨の名前を書いたことで江戸を去ることになります。
龍馬と半平太に頭を下げ、東北を放浪し、箱館にたどり着きました。ところが、宿泊先に3人組の強盗が入り、それを叩きのめします。旅館の主人に見込まれ、箱館に落ち着くことになるのですが、とうとう神主にも見込まれ婿養子に入ることになりました。(沢辺と苗字が変わります)
新島はニコライに海外渡航を相談しますが、国禁だからと表面は止めます。しかし、内心では黙認し「この青年は生きて帰れぬかも知れない」と思い、記念のために当時珍しかった写真を領事館で写し、出発前にこの写真を家族に送れと渡します。

ニコライについて

ハリスト正教会3代目司教
宣教師ニコライ(イワン・カサートキン)

1861年、25歳でロシア正教会の司教として函館に着任。日本はキリシタン禁制下でしたが、外国人居留地内で外国人が礼拝を行うことは許されていました。
沢辺琢磨はキリスト教で国を乗っ取るつもりかと、ニコライ殺害を決意しハリスト正教会を訪れますが、ミイラ取りがミイラとなり日本で最初のロシア正教会司祭となります。

一方、新島の志を知った沢辺琢磨は親友の「富士屋卯之吉」を紹介します。
卯之吉は英語修業の目的で英人のポーター商会に勤めていました。外人に日本語を教え、通訳し、外人との交際で英会話の実力をつけ、独力で英和辞典を作るほどになっていました。
卯之吉は27歳、父の仕事で自分には出来ない夢を22歳のこの青年にやらせたいと思いました。上海帰りの米国船ベルリン号が入港したので、船長に事情を打ち明け乗船を頼みます。新島を合わせ、7月17日の夜12時に乗り込むことを約束します。

約束の日、ニコライが撮ってくれた写真を父に送りました。
夜のふけるのを待って、ポーター商会で待ち受ける卯之吉が小船の底に新島を隠して、まさに岸を離れようとした時、巡視の番士に呼び止められます。富士屋卯之吉とわかり難を逃れます。

やっと湾口のベルリン丸に漕ぎつけると、船長は喜んで二人を迎えます。
新島は貨物室に隠され、翌7月18日朝、幕府の点検をすませて船は出航しました。新島が貨物室から出された時には、箱館山は遥か水平線に沈まんとしていました。

それからベルリン丸は8月2日上海に着き、そこでセーボリー船長の好意で、更にワイルド・ロヴァー号に乗り換え、各地の港を廻って米国の東海岸のボストンに到着します。
ワイルド・ロヴァー号の船長の好意によって、フィリップス・アカデミーに入学させてもらい、アーモスト大学、アンドウヴァー神学校を卒業しました。

明治4年、日本から来た岩倉使節団に合います。英会話も充分にこなせるようになり親善団の通訳となり、教育制度の視察に大いに役立ちます。
明治7年に帰国し、政府は新島を官に登用を進めますが、それを断りキリスト教講師による同志社英学校を興し、明治21年に京都に同志社大学を設立し、教育に生涯をささげたのはNHKドラマの通りです。