島 義勇 しま よしたけ

文政5年(1822) – 明治7年4月13日 斬罪梟首

現在の佐賀県佐賀市生まれ

札幌の町を作った人

 

札幌は、全国5番目の人口195万人都市となりました。
1869年(明治2)に島義勇が札幌に入ったころは原始林で、豊平川の西岸辺(中央区)に吉田茂八、東岸辺(豊平区)に志村鉄一、篠路(北区)に早山清太郎、元村(東区元町)に大友亀太郎らが住んでいただけでした。

江戸時代には藩が300もあり、ほとんどが藩校を設けていました。
その中で、優秀な人材を出す校として「東に会津の日新館、西に肥前の弘道館」がありました。弘道館の教育は学問と武道が中心で、優秀な者は、家柄にかかわらず、よい待遇が与えらますが、成績がよくない者は卒業もままならず、藩の役職にもつくことが出来ません。
更に、代々与えられていた家禄まで引き下げられるという厳しいものでした。

義勇が弘道館を卒業したのは1844年23歳。本来25歳までかかるので、よほど成績がよかったといえます。
城にあがった義勇に、藩主の鍋島直正から「三年間、諸国遊学」を命じられます。海峡を越えて長州、京都と全国各地を歩き回り、有名な学者や人望のある人物に会い見聞を広めます。

1856年、35歳の義勇は藩主の直正から「蝦夷地を調査するように」と命じられます。義勇は、開港し外国人が町を歩く箱館に出向きます。
そうして箱館奉行所で松浦武四郎に会い、「ロシアが蝦夷をうばおうとしているので一日も早く開拓しなければならない。それにはアイヌ民族の知恵をかりるべき」、また「蝦夷の首都は石狩平野が最も適している」と聞きます。
更に、蝦夷巡回に同行し北蝦夷から樺太に渡り、ロシア人が石炭を掘っていることを知り危機を感じます。途中皮膚病にかかりますが、宗谷に戻り、知床から根室・十勝を回り、登別で温泉に浸かり皮膚病を治して箱館に戻ります。

明治2年5月、戊辰戦争が終結すると、新政府はすかさず開拓使を設置し蝦夷地開拓に乗り出します。
朝廷の任命で開拓使トップに立ったのは旧肥前藩主(佐賀藩)の鍋島直正が命じられます。鍋島は開拓次官(箱館府知事)の下に5人の開拓判官を置きますが、その首席判官に島義勇を任命しました。
判官には岩村通俊、松浦武四郎、松本十郎らも加わりましたが、蝦夷を探検していたのは松浦武四郎と島義勇だけでした。

この年の8月、松浦武四郎の提案で蝦夷地は北海道と改称され、道内は11国86郡に分けられます。しかし、鍋島直正は病身のため辞任、代わって公卿・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が開拓長官になります。これが後々、島にとって不幸の始まりとなります。
島は、東久世から札幌を北海道の拠点に相応しい町にするための開拓資金として、6万円の予算を受け取りました(当時の米一俵は4円)。

島は、東久世長官やほかの判官とともに船で函館に行き、ここから分かれて小樽へ向かいます。背中には、明治天皇からあずかる開拓成功を神に祈る3体のご神体が背負われていました。
小樽に到着し、銭函に仮の住まいを構えます。
島が銭函から馬で札幌に着いたころはすでに一帯は根雪になっていました。
舟渡しの志村や豊平川上流で温泉宿を営む美泉定山を先導して、円山のコタンペツの丘(現在の北海道神宮)に上ります。見渡す限りの大平原がのぞまれ、樹海が続く中に大河があるのを見て「大府はここだ」と決意。

島がつくった基本計画の「石狩大府指図」に基づいて、縄を張りめぐらします。大友亀太郎が開いた大友堀(後の創成川)の一角に拠点を定め、これが現在の南一条西一丁目です。更に、大友堀を境に東西に分け、直角に道路をつけます。
これが南一条通り。その北側に道幅の広い大通りをつくりました。
大通りの北側を官舎街とし、長官官邸、判官邸、学校、病院などを建てます。
敷地はそれぞれ間口50間(約100m)、奥行き60間(120m)、それに役所、裁判所などの敷地を設定しました。

大通りを挟んで南側は一般の人々の居住所にします。
もし火災が起こった場合、大通の空間で燃え移るのを妨げる防火線にしたのです。
明治の初め、開拓使直轄地は函館と石狩本府を建設する札幌周辺、そして根室、宗谷付近だけでした。
小樽から石狩にかけての海岸線はすべて兵部省(陸軍省)の管轄か、諸藩に分割譲渡され、いわば二重構造になっていました。しかも、兵部省の石狩役所は長州藩の藩士で義勇を悩ませます。
銭函に居を構えた旧肥前藩の島と兵部省は対立し、地元民に対して「開拓使には一俵の米も売ることはまかりならぬ」と厳命し、石狩湾での荷揚げまで妨害したのです。
島は食糧を得るため漁場請負人を役人にしますが、開拓使の人員が大幅に増え、人件費ばかりか食糧費の大幅な値上がりを招きます。

これを知らされた東久世は窮地に追い込まれ、開拓使の予算を増やすか、島を更迭するかを政府に選択を迫ります。政府は明治3年2月、島を更迭し東京に呼び開拓判官としての仕事はわずか三か月で終わりました。
この島の交代は、もとをただせば政争に巻き込まれたもので、東久世は公卿だが長州落ちした強硬派、函館にいる判官の二代目となる岩村通俊は土佐出身。早くも藩閥政治の弊害が出始めていました。

東京に戻ると新政府は島を大学小監に任じます。
今の文部科学副大臣のようなポストで、島にとってははまり役でした。しかし、新政府の方針は二転三転し、次に明治天皇の侍従で20歳になったばかりの天皇の教育担当を50歳で務めます。更に、秋田県権令で今の県知事となります。

ところが1873年(明治5年)、わずか半年で東京命令を受けます。
明治5年の12月は2日で終わり、翌3日からは1874年(明治6年)元旦になりました。太陰暦から太陽暦に変わったのです。

新政府に対する国民の不満は高まっておりました。
明治維新に貢献した藩の藩士たちです。多くの血を流した割には、廃藩置県により給与は無くなり、武士の命である刀は取り上げられると政府に対する批判でした。佐賀の士族の間に不穏な動きがあるので、これを鎮めて欲しいという命令が出されます。
ところが明治7年(1874年)に郷里・佐賀を訪れた島は憂国党の党首に担がれ、江藤新平と共に佐賀の乱を起こすことになります。
結局敗れ、鹿児島まで逃亡。島津久光を頼り、大久保利通に助命の旨を取り次いでもらうが受け入れられず、同年3月7日捕らえられ、4月13日に斬罪梟首となりました。