砂澤 ビッキ すなざわ びっき

昭和6年3月6日~昭和64年1月25日
本名は恒雄

旭川生まれ

前衛彫刻家

 

旭川に近文(ちかぶみ)という地名があります。
アイヌ語の「チカプウニ」(鳥のいるところ)で、石狩川へ突き出した嵐山あたりに神の鳥・梟(ふくろう)がいたことから呼ばれていました。

明治27年、ここに上川アイヌの土地が定められコタンが出来ました。
ところが、日本人の入植者が増えるに従い近文も開発が進み、明治40年に一戸一町歩の荒地と木造が与えられ生活が苦しくなります。
とうとう昭和7年に、近文アイヌは全地返還を求める運動が起こり、国に陳情に行くことになりました。
この時、代表として満一歳の幼児を抱いて上京した親子がビッキとその父と母でした。

生い立ち

昭和6年に旭川市緑町に生まれます。
函館本線旭川駅から一つ札幌方面に近文駅があり、現在のイオンモール旭川西のエリアになります。本名は恒雄といい「ビッキ」は幼いころの愛称で、東北地方のカエルを呼ぶ名です。

アイヌ彫刻の元祖

旭川では大正の半ばから副業として、木彫や刺繍などの工芸品の制作が盛んになります。大正の末、八雲町の徳川牧場でスイスの「木彫り熊」を真似て、農民が試作したのが最初でした。
近文には松井梅太郎という優れた熊彫りが出て、彼のもとで多くの若者が熊彫りをはじめます。

昭和の初め、冷害凶作や経済不況の中で、木彫の伝統を生かした観光土産が収入源として大きなものになっていきます。
昭和10年代に、ビッキの兄の世代が熊の彫刻で勃興します。そうして、全国に観光ブームが起こり、北海道にも多くの観光客が訪れるようになりました。

昭和15年、太平洋戦争の前年、阿寒湖畔で父と母が観光土産の商売を始めます。夏は阿寒湖畔、秋から春までは旭川の生活でした。
ビッキが本格的に絵を描くようになったのは昭和23年のころで、夕食を終えるとランプや焚火の明かりでうつぶせになってクレヨンや鉛筆で馬や牛の絵を描いていました。父のマリキ細工を見よう見まねで鉈やマリキの使い方を覚えます。
昭和26年ビッキは独り立ちし、生活のため木彫を始め、旭川市内のお土産物産店に卸し始めます。

大宅壮一の日本発見

昭和30年、大宅壮一が阿寒国立公園を取材旅行で訪れた時に、一人のアイヌ青年を取り上げました。温泉街の外れにできた小さなお土産店が観光客の人気をさらっていました。
店先で熊彫りをしているビッキが「シャンソンを歌い、抽象美術を語る青年」で、記事の中心は青年と内地娘との恋物語でした。その年の冬、このロマンスがきっかけとなってビッキは鎌倉を訪れることになります。

鎌倉の駅前の若宮大路を下ったところを左折すると大巧寺があり、その小路を突き抜けると東勝寺橋が今もあります。
その近くに文学者澁澤龍彦の旧宅がありました。「マルキ・ド・サド」などの翻訳をおこなった家です。この澁澤家が鎌倉の文学青年の溜まり場となっていました。
ビッキはこのサークルに加わるようになったのは、鎌倉に行った最初の年からで、「飲んでは、恋愛、文学、芸術を語り、時には天下を論じ、時にはたあいもない世間話にうち興じた」のです。戦後世代の新しい思想やものの考え方にも大いに啓発されることになりました。

春から秋にかけては阿寒湖畔、冬には鎌倉の生活が昭和33年まで続きます。
昭和34年から故郷旭川に戻り、新たな生活が始まります。
旭川ではアンデパンダンの作家たちと交わるようになり、第20回北海道アンデパンダン展に初めて彫刻作品を出品します。

昭和21年に旭川で北海道アンデパンダン美術協会が結成されます。戦後美術の動向をいち早くとらえ、現在の平和通り(買物公園)にある画材・民芸品店高橋梅鳳堂の二階に北海道美術工芸研究所がありました。ここが若き芸術家の溜まり場となり、後の旭川市長となる五十嵐広三もおりました。
昭和35年の秋、第一回集団現代彫刻展が東京で開かれます。
行動美術協会の彫刻家を中心とした展覧会でしたが、ビッキは新鋭の彫刻家として注目されます。出品作は幅2メートルを超える大作で、生々しい物質感、凹凸や多様なノミ痕、空洞によって奇怪な空間を生んだものでした。

音威子府に移る

昭和53年、47歳の時に音威子府に移り住むことになります。
札幌で開いた個展に狩野剛(当時・村立音威子府高校長)が訪れ、音威子府に来ることを勧めました。
村はその年、高校の教科にインテリア科を設け、木工芸などの実習授業を取り入れていました。この道北の山村の広大な空間と豊富な木材に魅せられて、ビッキは家族とともに移住することを決意します。
天塩川がすぐそばを流れ、筬島(おさしま)は当時15戸50人ばかりの過疎地でした。ビッキは赤い屋根が鮮やかな旧筬島小学校が住まいであり「アトリエ・サンモア」となりました。

昭和54年1月29日にアトリエ開きを兼ねて個展を開きます。
猛吹雪のなか村の関係者、札幌や旭川から友人たちが集まり新たなスタートを祝しました。
その挨拶で「現代美術と云ったら音威子府をはずさないようにする」と抱負を語ります。

砂澤ビッキは57歳で他界したのは平成元年(1989)。
死の直前、神奈川県立県民ホールギャラリーで開かれた展覧会のオープニングに駆けつけます。この「現代作家シリーズ」展に晩年の代表作が一堂に並びました。

2017年、神奈川県立近代美術館葉山で、木魂を彫る「砂澤ビッキ展」が開催されていました。本州の公立の美術館では初の個展となります。
ビッキはアイヌの芸術家と云われることを嫌っていましたが、今後脚光を浴びることになると思われます。
世界で通用する芸術家として版画では棟方志功がおりますが、彫刻家では砂澤ビッキが注目されるでしょう。
札幌芸術の森に作品がありますが、長年の風雪で倒れており、これがビッキ彫刻の神髄です。