屯田兵              

不動尊

士別という町は、明治32年に屯田兵によって開かれた町です。
剣淵のビバガラスまでは兵屋建設のための鉄道がとおっており、壮健な屯田兵はビバガラスから士別までは徒歩で入地。

それ以外の屯田兵の家族(妻や子ども、老人)などは、
ビバガラスから剣淵川で丸木舟に乗り、現在の日甜近くのチューブス川近辺に上陸したのが定説です。(一説には剣淵川を下り今の観月橋(不動尊)に上陸もありますが定かではありません)

現在の大通り(国道40号)に100戸の兵屋が建てられており、家族520人とともに入植します。ところが、100戸のうち一戸が火災になり99戸となりました。この時期の屯田兵は平民が主で不安が高まります。しかし、より団結心が強まり守り神の士別神社を建築し、その山を「九十九山」と名付けました。

士別の隣町である剣淵も同じく明治32年から屯田兵が入植し、明治8年から始まった屯田兵制度の募集は終了しました。
新政府になり、明治6年に徴兵令が施行されました。しかし、北海道は屯田兵の入植があったため「徴収は免除」されていたのです。明治29年、札幌の月寒(現月寒中央)に第25歩兵連隊が作られ徴兵が北海道に住む人にも届くようになります。

明治38年に森林の御料地貸下げによって開拓の歴史が始まり、戦後の森林伐採で士別駅―上士別駅―朝日駅と軽便が走り、士別駅は木材集積駅となりました。

平成17年に朝日町は士別と合併しましたが、朝日町は元々昭和24年に上士別村から分村独立した町です。
昭和29年に当時の士別町・上士別村・多寄村・温根別村の1町3村が合併し、道内20番目の市として士別市が誕生しました。この時に上士別村でもちょうちん行列があったことを覚えております。