かみのくに町名は、 15世紀ころの蝦夷地南部の日本海側は、上ノ国、太平洋側は下の国(しものくに)と称されていました。
勝山館を擁し、日本海・北方交易の拠点として栄えたこの地に上ノ国の名前が残ったことに由来します。

北条義時から代官として蝦夷の守護を命じられた安東氏の下、小豪族たちが渡島半島南部に12館を築きました。
和人の横暴に耐えかねたアイヌたちは反乱を起こし、館を襲撃し快進撃となります。1457年比石(石崎)の厚谷重政の館も陥落。

武田信広

上ノ国の蠣崎季繁は花沢館を固め反撃に転じ、コシャマインを制圧することに成功。その鎮圧に功があった武田信広(後の松前藩始祖)は季繁の養女を迎え蠣崎姓を名乗り、天の川の須崎に館を築き地位を固めました。

季繁の死後、1470年頃に勝山館を築き、信広は生涯を終え長男の光広が跡を継ぎます。
1513年に福山(松前)の大館がアイヌの攻撃で落城すると、翌年大館の守将であった相原氏に代わる地位を安東氏に承認され、大館に移ることになりました。

 

 

史跡上之国館跡 勝山館跡(国指定史跡)

勝山館は、武田信広が15世紀後半に築いた山城で、16世紀末頃まで武田・蠣崎氏の日本海側での政治・軍事・交易の一大拠点。
発掘調査により、中国産青磁・白磁・染付、国産の美濃焼、越前焼など約5万点の陶磁器や、金属製品、木製品など10万点余りの出土品や建物・井戸・空壕・橋などの跡が多数見つかりました。
日本海北方交易や中世の生活様式など、「北の中世」を語る重要な史跡として、日本史の教科書などにも紹介されております。