千歳市(ちとせ)は、アイヌ語で「大きなくぼみ」という意味の「シコツ」と呼ばれていました。
1805年、箱館奉行所が「死骨」に通じるシコツを廃し、 当時多くの鶴が空を舞い、川辺は鶴の生息地となっていたことから「鶴は千年、亀は万年」の故事にちなみ「千歳」と命名されました。

蝦夷の時代はシコツ場所と呼ばれ、千歳川にサケが上がり、アイヌには恵まれた地でしたが、和人が入り込むと、この地は太平洋から日本海に抜ける交通の要衝となりました。
サケの千石場所として、4ケ所の番屋を置きアイヌ人と交易を行っていました。しかし、他でもそうであったように請負人の配下により収奪に近い取引となっていきました。

明治2年、高知藩が入植し開拓を始めましたが、廃藩置県で引き上げてしまいました。
明治17年、長岡源治兵衛ら山口県移民32戸が現在の清水・幸町に入植します。この時に先住者は10軒余おりました。

インディアン水車

明治21年、道庁水産課長伊藤一隆が千歳鮭鱒人工孵化場を建設、その8年後にインディアン水車も採用となります。

やがて第一次大戦となり、世界は飛行機の時代となります。
大正15年、千歳線の開通を契機に、村民総動員で小樽新聞社の宣伝用飛行機着陸場整理がはじまりでした。
本格的飛行機場実現の気運が高まり、太平洋戦争前の昭和12年海軍飛行機の設置が決定します。
以後、太平洋戦争~進駐軍駐留~朝鮮戦争となり、自衛隊創設~空港拡張となり発展していきました。

サケのふるさと館

インディアン水車は現在の稼働しており、「サケのふるさと館」、道の駅サーモンパーク千歳と整備され公園になっています。

古くから洪水に悩まされてきた千歳は、昭和56年の洪水で「千歳川放水路」が始まりましたが、自然保護団体の反対などで平成11年に中止となりました。