天保10年(1839)8月24日、松前藩主10代目良広が享年17死去。弟・昌広が養子となり15歳で家督を継ぎます。同年11月1日、11代将軍・徳川家斉にお目見えし、天保11年3月18日、従五位下志摩守に叙任しました。

藩主昌広は頭脳明晰で決断力に優れていました。有能な家臣を江戸・大坂等に出して勉学させるなど、藩の刷新に努めていました。儒学者の山田三川を登用して藩政改革を行なおうとするが、当時の松前藩では藩主の早世が相次いだために重臣・松前内蔵広純(曾祖父の8代藩主・道広の五男)の専横が行なわれていました。
このため、昌広は天保13年(1842年)9月、義父・松平乗全の力を後ろ盾にして12月に内蔵を家禄半分にしたうえで失脚に追い込み、江戸で蟄居させます。
その上で三川を側用人・表用人として改めて用いて、天保15年(1844年)5月から倹約・風紀粛清・奢侈禁止などを中心とした藩政改革を行いました。

しかし、21歳の若さで強度の神経衰弱にかかってしまい、藩政は三川と松前広茂によって行なわれ、昌広は江戸の藩邸で養生していただけでした。

弘化4年(1847年)に入ると、昌広の病状はさらに悪化し、酒色に耽るようにもなったため、嘉永2年(1849年)6月9日、家督を養子・崇広に譲って隠居しました。
その後は福山城北東の北殿で余生を送り、嘉永6年(1853年)8月8日に死去しました。享年29。

写真は松前藩主11代昌広の墓で、松前城の裏手の寺町法幢寺にあります。