積丹半島の神威岬

天保の大飢饉(天保2年/1831年)に遭遇して松前藩も困りましたが、奥羽の窮民が松前藩禁制をよそに大量に蝦夷地に流れ込みました。
松前藩は1691年(元禄4年)から、神威岬より奥への和人女性の立ち入りを禁止(女人禁制)していました。そのため、その以南の西蝦夷地、岩内・古宇・磯谷・歌棄・島小牧に和人集落が発展、特に岩内は嘉永年間(1848年~1854年)には5~600戸の市街になりました。
松前地区は鰊不漁の影響で人々は北上していったのです。

対外問題は松前藩だけではなくなりました。
文政元年(1818年)イギリス人が通商を求めて浦賀に来航。同じく5年・7年・8年と相次いでイギリス船の来航があり文政8年(1826)には「無二念打払令」が発行され、更に11年には「シーボルト事件」がおきます。
伊能忠敬の仲間や間宮林蔵にも疑いがかかりました。

蝦夷地においては、文政6年(1824)外国船が幌泉(襟裳)上陸。
8年には勇払沖に外国船出現、天保2年(1831)2月には、国籍不明の外国船が霧多布に上陸、厚岸勤番の松前藩兵と兵火を交えました。
同じ年の7月には内浦湾の有珠場所で松前藩兵と交戦しています。翌天保3年には椴法華沖、5年には津軽海峡で砲撃戦を交え、様似沖にも出没します。

天保14年には、ロシア船が漂流民を択捉島に送還してくれました。
この漂民は天保9年松前行きの途中仙台沖からハワイに流され、米国船・英国船でペトロハウロスクに送られたのち、ロシア船で送還されたものです。
松前航路の船民で漂流した人たちの多くはロシア船の好意で帰国しています。当然、松前藩も友好的接触で漂流民を受け取っていました。松前藩兵と兵火を交えた外国船は、ほとんどが国籍不明の船でした。

幕府は天保14年に無二念打払令を緩和し、薪水給与令に切り替えました。
そうして、天保15年、フランス船が厚岸のバラサン沖にあらわれ、薪水・食料の給与を受けます。

弘化元年(1844)、外国船が室蘭の絵鞆や厚岸にきましたがトラブルなく退散しています。

写真は積丹半島の神威岬