いま「蝦夷の時代」は、江戸幕府第11代将軍徳川家斉(在位:1787年~1837年)の時代を書いています。

梁川(やながわ)に移封された松前藩は、松前に戻るために賄賂を交えて様々な復領運動を展開していました。
蝦夷地における対ロシア対策は、ゴローニン送還後(1813年ー文化10年)緊張は緩和され、幕府も蝦夷地における直捌きによる利益はあったにせよ、わずらわしさも増してきました。

文政4年(1821)、幕府は直轄をやめて蝦夷全島を松前氏にかえしました。

9代目藩主松前章広が帰城した文政6年(1823)、長いあいだ鰊漁が続いていた福山地方がにわかに大漁になったので、「殿様下れば鰊も下る」と漁民たちも大喜びでした。

復領後は、かつてあった上級家臣の場所知行を廃止して全島を藩直領とし、藩校「徽典館(きてんかん)」を創立して人材養成をはかり、蝦夷地の警備体制を強化します。

「徽典館」の名称は、文化2年(1805年)福島県にできた藩学校に、大学頭林衡によって撰ばれました。この「徽典」という語句は、書経舜典の「慎徽五典」(慎みて五典を徽くす)から採ったもので、人倫五常の道を修める所という意味。その後、文政5年(1822年)に、松前にできた藩学校にも、同じ名称がつけられます。

幕府に対し家格の1万石以上への昇格運動を展開し,天保2年(1831)ついに1万石格となり、5年ごとの参勤交代となりました。

天保4年(1833)、藩主章広が死去。享年59。
文政10年(1827年)に次男・見広が死去したため、家督は見広の長男・良広が継ぎました。

財政は好転しましたが、藩主章広の後は若年の藩主があいつぎ、藩政は家老たちにまかされ、政治はやがて順調には進みませんでした。