苫小牧市の基礎

この時代(1800年)に現在の苫小牧に北方警備と生活の場を求めて上陸した集団がありました。北海道の人でもあまり聞くことがない「八王子千人同心」といわれる軍団です。
八王子千人同心の配置された多摩郡は、江戸時代を通じて10人の組頭に組織された同心で槍奉行に所属し、将軍上洛、日光社参のお供や日光の火消し役を本務としていましたが、通常は半士半農とし八王子近郊に定住していました。農民層にまで徳川の精神が強かったというので、後の新選組に参加する者もでています。

同心の長男は家系を継ぐことができますが、次男・三男等は農民として生活するしかなく、更に土地の分割は許されていませんでした。
同心の組頭・原半左衛門は、寛政11年(1799年)に次男・三男対策として蝦夷の警備と開拓を幕府に願いでたのです。
日ごろ農作や養蚕を行い、武術の心得もあることから、蝦夷地警備と開拓に適していると寛政12年(1800年)1月幕府に承認されます。
寛政12年(1800年)3月20日、弟の原新介が千人同心の子弟43名で出発。翌日に原半左衛門が57名をつれて八王子から蝦夷地に出発しました。両隊は函館に上陸し、体制を整えたあと100名を引き連れ開拓地を目指したのです。

新介は50名を引き連れ勇武津(苫小牧市勇払)に入植、半左衛門は50人を引き連れて白糠町の地に入植。両隊は自給自足により警備・開拓・交易・道路建設などに従事したのです。このことが北海道開拓の第一歩となりましたが、移住した同心たちが自給自足するには程遠い収穫高でした。

翌年2月には先発隊の補充として30名が八王子から蝦夷地に向かいます。
しかし、飢えと極寒の苛酷な自然環境などで不毛の原野の開拓は思うようにまかせず、文化元年(1804年)までに病死者32名・帰国者19名を出し、入植4年目に開拓を断念せざるをえませんでした。

また、八王子千人同心130名とは別に、組頭格3名が家族とともに従事しました。

この3名は原隊とは合流せず、幕府の役人とともに連絡担当や農業指導などにあたります。組頭・河西祐助の妻・梅は病気となり、入植3年後の享和3年(1803年)に5歳と2歳の幼い子を残して25歳の若さで死亡します。

さらに、4年後の文化4年(1807年)に河西祐助も死亡し、幼い子が残される身となり、夜鳴き梅女の伝説が語り伝えられています。(この像が苫小牧市民会館前にあります)

その後、組織が改正され、一部の同心が地雇い同心として蝦夷地に残りますが、原半左衛門と弟・新介らは文化5年(1808年)に江戸に帰還し原半左衛門は千人頭に復帰しました。

蝦夷地開拓の先駆けとなり、明治に入り屯田兵による本格的な北海道開拓となります。