鎖国について

「鎖国」という言葉は、ケンペルというドイツ人が医師として長崎に渡来した時に「日本誌」を著し、その付録部分を通詞が1801年に「鎖国論」の題をつけたことに始まるといわれています。

学校で習う日本史では、1639年(寛永16)に幕府がポルトガル船の来航を禁止した時点からとなっていますが、当時はまだ鎖国という言葉はありませんでした。

江戸時代の初期には海外貿易は活発でした。ところが、キリスト教国による日本侵略や信者団結を防ぐ目的で発令された「禁教令」(1612年)、貿易を幕府の統制下に置こうとしたため、次第に制限されるようになりました。
決定的だったのは、1637年(寛永14)の島原の乱で幕府はポロトガル船の来航を禁じ、その4年後にはオランダ商船を長崎の出島に移設します。しかし、これで鎖国になったわけではなく、ポルトガル国だけに対する処置でした。

幕府が真に鎖国体制を完成させたのは、大黒屋光大夫などを乗船して根室に上陸した第一回目の遣日使節(1792年)後のことで、1804年(文化元年)第二回遣日使節「レザノフ」が長崎へ来航した際「オランダ以外のヨーロッパの国とは通交しない」という方針をはじめて示した時点になります。

4つの出入口

そうはいっても江戸時代にも外国に開かれた4つの入口はありました。

最大の入口は、オランダや中国に対して開かれていた「長崎」の出島です。
2つ目は、対馬島の宗氏が日本と朝鮮の間で両国をつないだ「対馬口」。
3つ目は、中国や東南アジアと交易する琉球を支配下に、そこを通して外に開かれていた薩摩藩の「薩摩口」です。ただし、正式に国交のある国は朝鮮と琉球だけで、オランダや中国とは貿易関係しかなく、正式な国交を結んでいませんでした。

そうして、残るひとつが松前口です。
松前藩は、江戸時代の半ば過ぎまで、蝦夷地でのアイヌとの交易によって藩の財政を賄っていました。交易相手であるアイヌの世界は、蝦夷地本島にとどまらず、樺太や千島列島へも広がっており、樺太では中国、千島ではロシアと交易をしていたのです。

アイヌが樺太方面での交易で得た「ワシの尾羽、ガラス玉、綿類は、中国との交易品」。千島列島方面で入手した「ラシャ織物、サラサ織物」は、ロシアとの交易品です。

当時の北日本では、ロシアや中国との交易はアイヌが担い、そのアイヌと松前藩が交易することでロシアや中国の製品がもたらされていました。その逆に、日本のコメ・酒・鉄鍋・陶磁器・木綿類が松前から蝦夷地のアイヌに交易品として流出し、さらにこれらの一部がロシアや中国へと渡っていたのです。

写真は日本海の留萌市にある「海のふるさと館」にある山丹服で、アイヌ交易の一つでした。同じ山丹服で当時のものと思われる古いものが網走の博物館にもあります。