明治2年に北海道と命名されましたが、それ以前は蝦夷地といわれアイヌ民族が住んでいた大陸だったのです。
日本海やオホーツク海岸沿いは樺太から海を渡ってきた民族。太平洋沿岸や道東から知床半島一帯には千島列島から渡ってきた民族でした。
従って、一言で語るわけにはいかないのが「アイヌ民族」です。

この蝦夷地に初めて和人と言われる日本人が上陸したのはいつのことなのか?
1216年に東寺の凶賊や強盗を蝦夷が島に流したことが始まりでした。その後、源頼朝に負けた藤原残党などの上陸が続きます。当初はアイヌの先住民族と共存しますが、交易をめぐって争いは絶えませんでした。

そうして徳川時代に入ると松前藩が誕生し、米が採れない藩の財政は、アイヌ交易で賄う異例藩となり蝦夷地は松前の独占地となりました。領地は渡島半島南部の一部でしたが、アイヌとの勢力争いで太平洋・日本海の海岸沿いに進みます。
交易は当初藩の上級者に与えた権利でしたが、商売となれば商人には叶いません。とうとう商人に請け負わせることになりアイヌとの関係は悪化し、松前藩とアイヌ民族の蜂起が起きます。
このアイヌ民族との大きな「戦い」は三度ありました。しかし、戦は不利になると常にだまし討ちで勝利し、交易を有利に展開していきます。

徳川の幕藩体制に組み込まれた松前藩でしたが、幕府は1789年の「クナシリ・メナシの戦い」で東北諸藩に出兵を命令する体制が築かれ、異域であった蝦夷地における幕府の影響力は高まっていきます。
ロシア南下に対する松前藩の返答にしびれを切らし、田沼意次時代(1785)に太平洋と日本海に分けて蝦夷地調査に向かわせます。しかし、将軍家治の死去で田沼は失脚し調査は中止。
その後、老中となった松平定信は蝦夷地開発に消極的でした。ところが、1789年の戦いで津軽・南部藩に援軍の準備を強化し関心を持つようになります。

1792年にロシアのラクスマンが遣日使節として根室に来航します。
ところが、松平定信は根室を日本の領土ではないと考えていました。
この時は、松前藩を仲介者とし「長崎の通行手形」を渡し、ラクスマンを帰らせることに成功します。

写真は北海道博物館で展示されている「アイヌ交易」の絵です