1716年(享保元年)ころから場所請負制が盛んになります。
商場知行制のもとでは、藩や知行主は自ら船を仕立て、商場に交易に出かけなければなりません。
途中で嵐に遭って船が難破したりすると、一年の収入はなくなります。
しかも、その一年のために、知行主は商人から借金をしていることが多かったのです。また、うまくいっても商人との取引でごまかされることも少なくありませんでした。そんな危険と不利を冒してまで船を仕立てて苦労をするよりも、慣れた商人に委託して、利益の中から毎年一定の運上金(税金)をもらったほうが安心と考えました。

商人も、一定の運上金以外の利益は自分たちの利益になるので、損をしないように知行主の代理を務めます。これが場所請負制でした。
この場所請負制によって、それまでは一年に一度だった交易は春から秋までいつでも行われるようになりました。
そして、できるだけ多くの産物を集めるように本州の進んだ漁法を取り入れてアイヌを働かせるようになります。また、それまで行われていなかったオホーツク海側や樺太にまで交易を広げ、商人は大儲けをするようになっていきます。 

そこに新たに登場したのが、能登の村山伝兵衛、飛騨の飛騨屋久兵衛、紀州の栖原角兵衛、陸奥の伊達林右衛門、南部の熊野屋新右衛門でした。
村山と熊野屋をのぞいて、他は江戸に足場を持つ商人たちです。
そのころ松前藩は、6代目藩主邦広を中心とする藩財政改革がありました。         

 寛文9年(1669年)のシャクシャイン蜂起で和人が殺されたのは275人でした。
しかし、このうち侍の身分は鷹匠を含めても8人で、多くが商人だったのです。これは蝦夷地における「場所請負制」が進んでいたことを示す、前段階といえました。場所請負制の進展は、商業にも従事していた武士が商業交易から離れて、兵と商が分離していたと言えます。

場所請負人も、はじめは武士である知行主の肩代わりでしたが、一定の運上金と実際の商売とのあいだに利潤を大きくしようとすると、通常の交易だけでは難しくなってきます。それを補うために、アイヌの無知や慣習の違いにつけ込む詐欺的行為が必要となってきました。

シャクシャイン騒動の恐怖はやがて忘れられ、和人の優越感がつきまとうようになってくると、幼稚なアイヌ勘定だけではなく、悪質になっていきました。
船中で幅の狭い不安定な板の上で勘定させ、その途中で背後より突然抱きつき驚いて怒ると、和人はそこで詫びて一杯の酒やタバコを出し、機嫌を直すと、それまで勘定した数を忘れ、次から新しく一、二と勘定し、忘れた前の勘定数はそのまま和人の得分となったのです。

エスカレートは更に進みます。
アイヌの漁業生産は、内地の和人漁業者の方法からみると幼稚なもので、海岸に来る鰊をとるのに、タモ網ではタカがしれたものでした。漁獲物の保存方法も単純で、鮭は乾燥させるか、雪のなかで凍らせるしかありませんでした。
請負人は場所の生産をあげるために、刺し網や引き網、製法も「しめ粕」、鮑の串貝から白干鮑、鮭の塩蔵などを持ち込んでいきます。

更に、生産技術だけでなく、アイヌを漁場労働人として位置付けられていくこととなります。
これが正当な賃金労働者であればよいのですが、詐欺的勘定による負債や、漁業の前貸しなどに縛られて、半奴隷的労働者の境遇におちいっていくことになりました。