蝦夷の産物は海産物だけではありませんでした。

蝦夷の檜(ひのき・エゾマツ)は江戸の材木商人にとっては宝の山だったのです。飛騨は、林業の歴史で江戸以前から木材の利権をめぐって、権力者との戦いがありました。

飛騨屋久兵衛の初代は1674に松前に渡り、1702年(元禄15)松前藩から蝦夷檜伐採の許可を得て、志利別(しりべつ)、沙流(さる・現平取)、久寿里(くすり・現釧路)、厚岸(あっけし)などの各山を開き、江戸へ積み出し巨利を得ていました。                              

1774年(安永3)から飛騨屋がアイヌとの交易を請け負うようになります。
松前藩は飛騨屋から多額の借財を返済することができないで、借金のカタに藩の場所を与えたのが始まりでした。

3代目になると(1737―84)石狩12場所の下請負、さらにヱトモ(室蘭)、厚岸、霧多布(きりたっぷ)、宗谷(そうや)場所を請け負い、その活動範囲を山から海へと広げました。

しかし、その後藩と結託した元手代嘉右衛門(かえもん)とのいざこざがあり、藩により伐採業を禁止されます。

4代目(1765―1822)になると国後(くなしり)・目梨(めなし)にまで場所請負の範囲は拡大していました。ところが、飛騨屋の交易は赤字が続いたため、交易に加えて現地のアイヌを労働力として酷使するようになりました。

飛騨屋による現地経営の方法は、支配人・通辞(通訳)・番人などが中心となってアイヌを使い、大網でサケ・マスを捕獲、それを大釜でゆでて絞り〆粕を製造するというものでした。しかし、飛騨屋のアイヌたちの使い方には、大きな問題があったのです。

支配人らは、アイヌを暴力と脅迫によって半ば強制的に働かせ、わずかな報酬で、自分たちの食糧を確保する暇も与えないほど、酷使していたのです。

また、女性アイヌに性的暴行を加えたり、夫がいる女性アイヌを妾同様に扱う支配人もいたことから、クナシリ島(国後)やメナシ(目梨・根室)地方のアイヌたちの我慢は限界に達していました。

1789年(寛政元年)の春、病気療養中のクナシリのリーダーサンキチのもとに、メナシ領の支配人が訪れ、持参した酒を飲んだところ死んでしまいます。
同じころ、運上屋からもらった飯を食べ、まもなく死亡。
そのため、アイヌの間では毒の入った餅が配られるという噂が流れ始めました。普段から「働かなければ毒殺する」と脅してきた飛騨屋の支配人らの仕業に違いないと考えたのです。

そうして、蝦夷におけるアイヌ民族の最後の戦いが、国後・根室で始まることになります。

蝦夷の時代23(松前藩の財政・檜)に飛騨屋家のことを書いています