宗谷岬からのサハリン

直線距離にして約43キロ、かつて間宮林蔵が故郷から持参した墓石を海岸に立てて渡航したといわれるサハリン。

戦前・戦中は稚内とコルサコフ(旧大泊)に連絡船が通い、新天地を目指して人々が渡った地でもあります。

戦後から続いていた国交の悪化も昭和47年にネベリスクとの間に友好都市提携が結ばれ日露友好会館も建設され、1990年には航路で結ばれることになり稚内市内にロシア人の姿を見ることもできました。

宗谷炭鉱、天北石炭鉱業の二大炭鉱時代

ロシアにおけるアイヌ

貞享年間に宗谷場所が置かれ、1806年ロシア船の樺太における暴挙で幕府は蝦夷地を直轄とし宗谷警備を津軽藩に命じます。ところが準備不足もあり多くの人々が病に倒れました。

その後、松前藩は蝦夷地復領を図り幕府への献金で財政が窮迫します。それが請負人の負担となりアイヌ人への不当な扱いとなっていきました。

6藩への蝦夷地分与~明治の分領支配~東京から100名余の移民~石川県からの出稼ぎ人や移住者が多く、船団を組んで漁を行っていました。

明治24年、東京の岩谷松平がウエンナイに賃下げを受け、大規模農場開設の初めとなり、大正に入り団体移民が入植するようになりました。

最北の宗谷炭鉱(曲淵)

昭和から曲淵で採炭を始め宗谷炭鉱、天北石炭鉱業の二大炭鉱時代を築き、一時は宗谷炭鉱で年間7万トンを採炭しましたが、昭和30年末までにいずれも閉山しました。