寿都町と島牧村の境界に突き出た岬で、昔、アイヌの人たちはポロ・エドと呼んでいました。更科源蔵の「アイヌ語地名解」によれば、大きな鼻の形の岬の意味。
この岬の先端が裂けたようになっていて、この岩と岬の間をベルケイ(裂けたところ)と言ったのを和人がベンケイとなまったという説があります。 

松浦武四郎の「西蝦夷日誌」には、ここをベニツケウと称し、その形が獣の背に似ているところから付けられたとしていますが、一方、武蔵坊弁慶が甲冑を曝されたところで弁慶岬とも。いろいろな説があるようです。

しかし、ここに建つ弁慶の銅像は下記の伝説から造られました。

想望 ―― 同志を待ちわびる弁慶の心、ここに宿る。

義経伝説

奥州を逃れた義経・弁慶一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在していた。
弁慶の舎弟ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は、毎日毎日、この岬の先端に立って海尊の到着を待っていたが、海尊軍団の船影を見ることはできなかった。
そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬のことを、弁慶が同志を待ちわびていた岬ということから、いつしか弁慶岬と呼ぶようになったといわれる伝説が残り、その姿を再現した銅像が建てられています。
銅像の台座に刻まれている「想望」の二文字は、ここからつけられたものです。