地球岬は「水平線が丸くみえる」という意味で名付けたと思っていました。
これは大間違いでした。
アイヌ語の「ポロ・チケップ」(親である断崖)が、チケウエ→チキウ→チキュウと転化して地球という当て字が使われ、岬の名前になったということです。
岬の灯台は全面が白です。更に見上げる灯台が一般的ですが、見下ろす灯台はそうありません。

室蘭という町は歴史が古く、1600年(関ヶ原の戦い)まで遡らなければなりません。札幌から2時間30分ほどかかりますが、行けば行くほど不思議な街です。

室蘭の地形は馬蹄の様な湾になっており、この馬蹄の先端を繋いだのが現在の「白鳥大橋」(国道37号)です。

絵鞆岬(えともみさき)があるのは半島の先端で、対岸は現在陣屋町・崎守町の住宅地となっています。
陣屋町とは、江戸時代の都市形態で行政中心の陣屋や代官所が置かれた町のことです。
室蘭の語源はアイヌ語の「モ・ルエラニ」から転化したもので、「小さな坂道の下りたところ」という意味です。この坂道とは「崎守町」にある仙海寺(せんかいじ)前の坂がゆかりとされ「ムロラン地名発祥の地」となっています。

黒印状―(黒印を押して発給した武家文書)

何故、崎守が町になったのかは歴史を調べる必要がありました。
アイヌの人たちは古来より舟を使い東北地方全般と取引をしていました。
ところが、徳川幕府が開かれると、松前慶広(武田信広から5世)は松前藩の初代藩主となり、家康はアイヌとの交易は松前藩のみが行う事を決定します。
これが黒印状です。全国の商人はアイヌの商品が欲しければ松前藩から仕入れる他はなく、アイヌも必要なものは松前藩から交換する他はなくなりました。

絵鞆岬で行われた商取引とは、和人は米・たばこ・酒・塩・衣類などを贈り、アイヌからは海産物のニシン・サケ・コンブ、クマ・シカの毛皮などと交換していました。当時は米1俵と干鮭100尾が相場でした。
当初は無理のない範囲のものでしたが、1665年に松前藩は財政難から一方的に従来の米1俵=干鮭100尾から、米7升(約10.5kg)=干鮭100本と、約3倍の値上げを行ないます。

シャクシャインの戦い
 (写真の銅像は昨年取り壊され、優しい像に変えられました)

1669年、蝦夷地でアイヌ民族最大の戦いが松前藩との間で起きました。
松前藩の圧政に耐えかねていた事もあり、対立していた部族はシャクシャインを中心にまとまり、1669年6月、取引に来た松前藩の船を襲いました。突然の襲撃に対応できず、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺されます。

更に、静内を出発した一行は日高・胆振管内のアイヌ民族に呼び掛け、日本海にも激を飛ばし、集合したのが「絵鞆岬」でした。この時には2000人の軍勢に膨れ上がっていました。
松前藩の要請に秋田、南部、弘前の諸藩が鉄砲を提供し松前に駆けつけますが、松前藩は現地には入れませんでした。幕府に実情を知られては藩の取りつぶしにあうからです。

シャクシャインの軍勢は松前軍のいるクンヌイ(長万部町国縫)に7月末に到着。戦闘が8月上旬まで続きます。
アイヌの武器は弓矢が主体ですが、松前藩は鉄砲を使用。幕府から支援もある為、武器の性能、物量共にアイヌ民族側が圧倒的に不利でした。
シャクシャイン達は自分達の住んでいた場所まで後退し、奥地で徹底抗戦を行う事を決めます。
11月、松前藩から和睦の話が持ち込まれます。

だまし討ち

シャクシャインは和睦に応じ、宴席に招かれます。ところが松前藩の罠で、和睦の宴席中にシャクシャインは殺害されました。この時に殺害されたのは他の首長も含め74人もいたそうです。翌日にはシャクシャインの住んでいた村も焼き払われます。
このことで、松前藩は蝦夷の実権を握ることになりアイヌ民族の生活はより苦しくなりました。
(静内の図書館にはシャクシャインに関する本や紙芝居がたくさんあります)

夷酋列像の一枚

1789年、今度は根室・国後でアイヌが立ちあがります。
この蜂起も松前藩特有の騙し討ちで事を治めるのですが、幕府に実情を知られてしまいました。(蠣崎波響が描いた夷酋列像は幕府を騙すためのものでした)

寛政11年(1799)幕府は、松前藩に北辺の警備能力がないことと、場所請負人が搾取、不正、私利私欲をむさぼるため場所を幕府直轄とし、運上屋を「会所」と改めて役人を置くようになりました。
絵鞆運上屋は200年ほど続きましたが、文化2年(1805)モロラン(今の崎守)に会所を移します。
蝦夷地直轄となると幕府は道路の開削も行い、崎守は奥地への交通の要衝として重要な役割となり明治5年の札幌本道開削までの70年間、室蘭地方最大の町を作るまでに発展しました。

アイヌ文化に由来する名勝「ピリカノカ」(美しい・形)

東室蘭駅から海に向かうと「イタンキ浜」があります。
イタンキの語源は「椀」のことです。昔、飢饉にあった日高地方のアイヌの人たちが絵鞆に食料を求めてくる途中、フンペシュマ(鯨岩)を鯨と思い、岸に流れ着くのを寒さに耐えながら待つうち、薪が尽きてしまい、最後に残った自分のお椀まで燃やしてしまい、ついに全員が餓死してしまったという悲しい伝説から付いた地名です。室蘭市内にはこのようなアイヌ語に由来する地名が100以上あるといいます。金田一京助が、アイヌの口承文芸調査を最初に行ったのが室蘭でした。

室蘭市の外海岸は、断崖絶壁が続く美しい海岸です。
名勝とは日本三景や金沢の兼六園など、代表的なものがあります。
しかし、北海道ではあまり例がありません。美しい景観はありますが、文芸作品の題材といった歴史的由緒が乏しいのが一因です。このため、道内各地に残るアイヌ文化に由来する景勝地を「ピリカノカ」(美しい・形)として指定し保護する取り組みが進められています。

道内には現在8地区の国指定「ピリカノカ」があります。室蘭の絵鞆半島外海岸が平成24年に指定され、その海岸4カ所「ハルカラモイ・増市浜・地球岬・トッカリショ浜」でした。
因みに、他地区では、名寄市(九度山)、石狩市浜益区(黄金山)、枝幸・浜頓別町(神威岬)、えりも町(襟裳岬)、遠軽町(願望岩)、浦幌町(カムイチャシ)、帯広・中札内村(幌尻岳)です。

北の美術館 観光客が行かない室蘭市の旅(後編) 2020年3月  通算73号