道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

尚、このCDは現在「北海道立図書館北方資料室」にあります。
私が借りた時は「北海道立文書館」でしたが変わりました。

 

遠軽町 1965年(昭和40年) 28分 白黒 音声あり 

映像は二両の客車を牽く蒸気機関車が遠軽駅を目指しているところから始まりました。

願望岩の頂上から列車と駅を見下ろすことができます。駅はここでスイッチバックするため行き止まり、遠軽駅は交通の中心町で汽車の入れ替え作業などで構内は人の出入りが激しい風景です。

願望岩
町名の由来は、町のシンボルである瞰望岩(がんぼういわ)を指すアイヌ語「インガルシ(見晴らしの良いところ)」といいます。
この岩は市街地にそびえており、湧別アイヌと十勝アイヌの古戦場でもあります。したがって、アイヌ民族にとっては祝祭が行われた厳粛な場所でもありました。(北海道の名勝「ピリカノカ」の1か所に指定されています)
現在は、広大な「太陽の丘えんがる公園」となり、キャンプ場・遊園地・球場などがあり市民の憩いの場となっています。

遠軽の歴史は、明治29年1月、仙台の日本基督教会、東北学院の創立者の一人である押川方義、東北学院神学部出身の信太寿之などによって「北海道同志教育会」が創立されました。
キリスト教主義の私立大学を設立するという希望に燃えるキリスト教徒の理想郷建設に端を発していることから、一般的な北海道植民事業とは異にしています。
当時、遠軽は学田地と呼ばれ、湧別原野第4小作地として解放されたところで、明治29年に押川方義ほか4名への貸付予定地として許可されました。
明治30年5月7日、最初の移民30戸、121人が学田に入植したのが遠軽歴史のはじまった日です。

日本基督教会遠軽教会は、当時も日曜日になれば町に三か所ある教会は満席となります。

人口21000人の遠軽市街地が映されています。

遠軽の基幹産業
田園風景では水田で田植え風景です。
北海道農業試験場の作物部特用作場研究所では、薄荷の研究をしています。北見が95%の生産ですが、遠軽でも研究が行われています。
農作物の代表は、畑作でジャガイモとビートでした。そもそも遠軽は傾斜地が多いので農業大型化は難しく、1戸当たりの作付面積は小さいということでした。
農協では新しい農業を開こうとしていました。それは酪農です。鶏卵の試験場では寒冷地用の養鶏研究です。
多角経営の一つとして「豚」「牛」で、特に牛は集乳缶で集められ年36000tとなり、バターや乳製品を作っています。

林業も代表的な産業です。遠軽では北海道で唯一といわれる「マッチ軸」を作っています。

北海道家庭学校
教会・礼拝堂が映り、ここは学校でした。遠軽町は開拓で入植した人たちの伝統がそのまま継続されて今日を向かえている珍しい町です。学校には桂林寮がありました。
昼食を全員で食べて、午後は作業実習の時間です。自然が教科書ということで森に入り、伐採された木の皮を剥ぎ二人がかりで木を担ぎ一か所に集めます。これが教育です。

瀬戸瀬温泉
列車で旅行です。向かった先は瀬戸瀬温泉旅館でした。一軒しかない温泉旅館ですが、町の人たちの癒しの場でもあります。家族連れや団体客も訪れ、鹿に餌をやり、蓮の花を眺めています。
冬は「国設遠軽セトセ山スキー場」となります。大きな大会も開かれているといいます。

遠軽公園
最後は願望岩の近くにある神社の祭りです。相撲大会、弓道、柔道などが映っていました。

そうして、ハイキングで願望岩に上り展望台から遠軽の市街地を見渡します。

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