島木健作「嵐のなか」ー網走市

島木 健作(しまき けんさく)
1903年 – 1945年 小説家。
明治36年9月7日、札幌生まれ。本名朝倉菊雄。
2歳のとき父を失って一家は離散し、苦学しながら20歳で北海中学を卒業、東北帝国大学法文学部の選科に入ったが、東北学連に加わって学業を棄(す)て、大正15年日本農民組合香川県連合会木田郡支部の書記となり、農民運動に投じる。1928年(昭和3)三・一五事件で検挙、起訴され、翌年控訴審の公判廷で転向を声明したが、1930年有罪が確定して下獄した。1932年仮釈放ののち、1934年4月『文学評論』に『癩(らい)』を発表して注目された。

札幌生まれの島木健作が網走を旅したのは、昭和15年の春37歳の時でした。その時の体験が小説「嵐のなか」に収められています。

「網走川の上にかかった橋の上に立ってしばらく海の方を眺めていた。海はオホーツク海である。水と天の連なるところにも、流氷がびっしりと張りつめて真白くなっている。」

「網走川の土手を下りて川に沿い、赤灯台の方へ歩き出した。岸には何艘もの船が陸揚げしてあった。船大工が船底にもぐり込んで、仰向けになりカンカン音をさせていた。雄吉は築港の岸壁の上をどこまでも歩いて行った。
右手の海上に赤灯台を見て、帽子岩に突き当たる。岸壁に打ち付ける水の音がようやく高くなって来た。」

「帽子岩が暮れかかる海の中へ次第に遠のいてゆくようだが、もうすぐという所まで来て雄吉は思わず立ち止まった。
それは残照の美しい一瞬なのだった。能取岬の陰に隠れようとしている日が、最後の光芒を放ったのだった。そしてその光芒は能取岬を遠く相対している知床半島の山々にまでも反映した。」

帽子岩とは網走の地名にもなっており、アイヌ語のア・パ・シリ=われらが発見した岩が転訛したものです。網走川河口にある山高帽のような形をしていて高さ20m、周囲は100mほどあります。写真で見える円い岩です。