長見義三「白猿記」ーむかわ町穂別

『白猿記』北海道新聞社 1977

長見 義三(おさみ ぎぞう)
1908年5月23日 – 1994年4月21日 小説家。

夕張郡長沼町生まれ。早稲田高等学院卒後、1938年早稲田大学文学部仏文科卒。
1928年「母胎より塚穴へ」が「小樽新聞」の懸賞小説1等入選となる。
1939年『姫鱒』で第9回芥川賞候補。
敗戦後は千歳市の米軍キャンプで通訳を務める。1985年千歳市文化功労賞受賞、1990年北海道文化賞受賞。

 

むかわ町と合併しましたが胆振管内の最東北部で平取町に接した森林の町が旧穂別町です。戦後になって鵡川駅から富内線が走っていましたが、それも廃線となっています。
この地で青春期を送ったのが長見義三でした。明治41年に長沼で生まれ、大正10年に小樽中学に入学し、13年に一家は穂別に移りました。森林伐採の好景気を聞いて転任を決めたといいます。長見はここで小説の素材の大部分を得ることになりました。

「白猿記」は、戦中戦後の激動期に遭遇して文壇への復帰を果たせなかった著者の、50歳のときに書いた文学的半生記です。

「穂別を舞台にした小説に、私はカタクリの花をそえたことがある。全国的な野草なのであろうから、その群落は各地にあるに違いない。が、30年前に、穂別市街の後につづく官材の裾を蔽ていた広大な群落の花時の美しさは、忘れ難い。
福寿草が散りかけると、姫百合に似た大きさと形のこの花は、薄いローズ色をして春を告げるのである。」

「お前がたち向かったものは、確かにお前の力を超えたものである。だからといって、決して侮るな。それは、生涯みとれるだけの値打ちがある。少なくも、いままでのお前の生活の色彩は、そのために、ゆたかでさえあったのだ」

で終わります。

福寿草は、旧穂別町の廃線駅となった旧富内駅で写したものです。