道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

尚、このCDは現在「北海道立図書館北方資料室」にあります。
私が借りた時は「北海道立文書館」でしたが変わりました。

 

夕張市  1965年(昭和40年) 28分 白黒  音声あり        

夕張の始まりは、明治21年、北海道庁技師の坂市太郎が石炭の大露頭を発見したことにはじまります。坂はライマンの助手として明治6年から3年間調査に随行した一人でした。
明治21年、坂が35歳の時に和人1名、アイヌの若者7名を雇い入れ、幌内炭鉱を出発。川ではなく陸地から夕張に向かいました。奥地に進むにつれ、大木や熊笹は14年前となんら変わりませんでした。こうして、ついに夕張の奥地、シホロカベツ川の上流にたどり着きました。
坂は突然走り出し、鮮やかな黒いダイヤが頭を出して光輝いているのを発見。
厚さ7メートル以上に及ぶ石炭層(北海道指定天然記念物)を持つ、瀝青炭の大露頭でした。

この瀝青炭が映像では「8尺層」として、学生の研修旅行として映されています。

坂市太郎が発見した有機俐大炭田は、道内はおろか全国でも大きな話題となり、2年後には夕張採炭所が開設されます。その後、室蘭線・夕張線の鉄道も開通、採炭地の中心拠点となります。
この鉄道の映像はダイナミックに夕張の町を走っています。大都市の風景です。

社光・住初地区は北海道炭鉱鉄道の夕張採炭所の開設当時から発展した住宅地で、社光とは斜坑が近くにあったことから付いた名です。秋田・九州出身の鉱夫が多かったといいます。開設の2年後には夕張線が開通。
明治39年、京都合資会社が南部大夕張に開坑、大正期に三菱の経営となり、昭和初期北部大夕張も開発に着手、三菱よりも栄え、戦後はこの地区の分村まで論議されました。

夕張は昭和40年だけを捉えても中々理解できない町です。

昭和35年にピークを迎え、炭鉱は20数山を数えました。
北炭(夕張鉱業所・平和鉱業所)、三菱(大夕張鉱業所)の三大鉱業所を中心に関連産業も発達し、116,908人の都市となり繁栄の一途を辿りました。映像はこの時代の夕張が映されております。

夕張市長も現在の「新夕張」地域の開発を進め、昭和56年に札幌と帯広を結ぶ石勝線の開発計画の発言をしております。

しかし、昭和56年夕張炭鉱で死者93名という事故で閉山、続いて北炭真谷地炭鉱なども閉山し、最後の三菱南大夕張炭鉱も平成2年(1990年)に閉山しました。
その後石炭産業の衰退・廃坑が続き、2006年には深刻な財政難のあおりを受け、2007年(平成19年)3月6日をもって財政再建団体に指定され財政破綻しました。