明治22年(1889)8月19日未明から20日にかけては台風接近に伴う集中豪雨が紀伊半島を襲いました。
8月19日から24時間降水量は推定1000㎜大規模な山の崩壊1080か所、河川閉鎖による天然ダム37か所となりました。堰き止められたダムは次々と決壊し鉄砲水となって下流の集落を襲い被害を大きくします。山の崩壊と天然ダムの決壊により全村で死者168名・流出家屋267戸・全壊家屋343戸半壊家屋2403戸、耕地の埋没と流出226hr生活の基盤を失った人は3000人に上りました。

十津川村豪雨災害の状況は「新十津川物語・北へ行く旅人たち」が分かりやすいので以下抜粋します。

那知合地区

(新十津川物語の主人公津田フキの家があったところ)

家がキシキシと鳴った。いろりの上で、自在鉤(じざいかぎ)が大きくゆれはじめている。外へ目をもどしたフキは、目の前の山がひょいと動いたように思った。谷を隔てた高い山の空が、ふっとずれて動いたのだ。あれっと思ったとき、足の下でやわらかいものがぐにゃりとうねった。不快感が突き上げてきた。家鳴りはまだつづいている。

「地震やよっ」とたんに、ずうーんと大きな衝撃が来た。家の中にいた者もあわてて飛び出してきた。ひさしの下に雨をさけながら目をこらす。そして、みんなは思わず息をのんだ。

右手、那知合川(なちあいがわ)の下流へかけて、谷はなんともいえず赤かったのだ。そこは、みごとな杉山が山頂へと連なっているところだ。杉山は雑木林につづいていた。ところが、かすかな残光の中で、谷はずんべらぼうになっている。7~80メートルの幅で、山の尾根はざくりと切り取られていた。

眼の下では新しい現象が起こりはじめていた。赤くただれた土が崩れ落ちたのち、川の音ははたと消えたのである。

「見ろや、崩れた土が川をせき止めたぞ。谷にどえらい池が生まれるやもしらん。」

「池が・・か」「そうや、地響きたてて流れくだっていた川の音が死んでいる」

「逃げよう、ここも危ない」「行くって、どこへ」「上や。尾根のてっぺんへ逃げる」

「さあ、みんな立ってもらおう。後木の留さんのところまで上がってみようかい。菊さんや、案内を頼む」

「荘さんは」「しんがりを務める」いつのまにか武士の声に戻っていた。

明治維新のときは、まだ19歳だった。が、彼は京都の十津川屋敷につとめていた。越後(新潟)の長岡攻めにもついていっている。戦いはさんざんの苦戦だったが、ふしぎに生きて帰ってきた。そのときと同じ意気込みで、「逃げろ、いそげ」と繰り返した。

現在の十津川温泉地区

那知合より早く最初の被害は、流水から始まっていた。村の南端の平谷(ひらだに)では、前日から増水が激しかった。二階にあがって避難していた一家は、家ごと濁流に押し流された。屋根を突き破ってはいだしたが、暗いうえに流れが速い。一家は泣き叫ぶ闇の中に消えていった。流された五人のうち、一人はのちに新宮で遺体となって見つかった。

那知合で初めての地滑りが起きたと同じ頃、十津川郷は示し合わせたように山が崩れ落ちていた。崩れるというよりは山津波というほうが当を得ている。広い山の斜面全体が轟音とともにすべっていき、あとには一物も残さなかった。

宇宮原地区(村の最北部・入口近く)

本流ぞいの北からの入口にあたる宇宮原(うぐわら)では、郡長の玉置高良(たまきたかなが)が泊まっていた。役所のある五條へ出ようと、十津川を駕籠でさかのぼってきた。雨で進めないので宿にわらじをぬいでいた。三人の駕籠かきも一緒だった。夜に入って、どうも山のようすがおかしい。太っ腹な玉置は酒を飲んで早くから寝た。

玉置高良というのは(1837-1889)十津川郷士のことです。
文久3年(1863)十津川郷士は、京都御所警衛の任に維新までの約5年間従事していました。この滞在中の郷士達にとっての大きな問題は経費の捻出でした。高良は私財2,000余両を投じて、公費を補い、郷士の勤皇運動に大いに尽力した人物です。元治元年(1864)郷校文武館が設立、文武館詰助役となります。次いで郷中総代となり郷務の整理に当たります。明治5年、玉置神社祠官に就任。
明治13年には、宇智吉野郡長に任ぜられました。十津川廃仏毀釈の総指揮者。

下男の一人が雨の中を山頂近くまではいあがって、振り返るとすぐ5、6歩うしろで山はずるずると逃げていくところだった。すさまじい音がひびいて、下男が谷底をのぞくと、そこにはもう集落の影もなく、暗い闇と雨にたたかれていた。郡長の姿を見た者はいなかった。

女たちが念仏を唱えだした。明治の初め、村は廃仏毇釈(仏教を捨てること)によって、一つ残らず寺をぶち壊してしまった。位牌や仏壇はどの家にもない。郡長の玉置高良が厳しく指図して、みんな十津川へぶちこんでしまったのである。それでも、われ知らず女たちは念仏を唱えた。

被害はとりわけ北部に激しく、西から来る支流の神納川(かんの)では、5つの湖ができた。