十津川村というところ

十津川村は奈良県吉野郡の奥地にひろがっている広大な山岳地帯です。十津川(熊野川本流)という渓流が紀州熊野にむかって流れ、平坦地はほとんどなく秘境といわれています。

こんにちなお町村合併に応ぜず「村」を呼称。
日本の自治体は183の村がありますが、十津川村の面積は琵琶湖ほどあり日本一です。

人口は 3,166人(世帯:1,729戸)[2020年4月1日]で人口密度は1キロ平方あたり十数人で73位。山手線内くらい広い村ですが、村の96%を山林が占め、1,000m級の急峻な山が連なっています。
村の中央部を南へ貫流する十津川は、山々の間にV字形の渓谷をなして曲流し、

これに沿って通じる西熊野街道は急斜面の谷壁に沿う難路でした。
このため終戦まで陸の孤島と言われ、北方近畿文化や、南方熊野海岸ともさえぎられたままでした。

十津川村役場

しかし戦後、開発が進み道路は改良され、国道168号が全通して近畿と南紀を結ぶ動脈となり、時間の短縮と文化経済の影響を強く受けることとなります。
北は大塔村、野迫川村に接し、村役場から天辻峠を越えて、五條市へは約78キロ、バスで約2時間半となりました。

昔の十津川郷

谷底を晴れた日は一日中、川は筏が流れ、長い道のりなので、筏は何組かにこぎつがれて南のほう、新宮へとくだっていきます。村は貧しく、それでいて京都に政変がおこれば、男たちは刀をぶちこんで槍をかいこみ、すっとんで行きます。

天皇を守るためでした。

南北朝のときもそうでしたし、明治維新のときもそうでした。

報酬は初めから当てにしていないのが十津川郷士の心意気。都の騒ぎが終われば、さっさと山の中へ帰ってきます。気位が高く、にわかに強力な野武士集団として団結してしまうのです。

それだけに、始末に悪い村ともいえます。以前の十津川郷は一村だったし、もっと広くもありました。そのせいか、江戸時代でさえ、どこの領地にも組み込まれない。直接には40キロほど北にある五條の代官支配になっていましたが、年貢はとられませんでした。類のない郷士たちの村だったのです。

「とんと十津川ご赦免どころ、年貢いらずのつくりどり」という歌があります。

歌には「どうだ、ただの百姓、木こりとはちがうぞ」という誇りが顔をのぞかせています。

けわしい山の斜面にへばりついて暮らす百姓軍団が、明治維新後全村あげて士族となりました。

時代が動くとき「十津川」の名前は歴史に数多く残っています。
十津川村史を紐解くと神武天皇にまで遡らなければなりません。
次回からは秘境の村と言われるようになったところから綴っていきます。

写真は十津川村にある玉置神社で、世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部です。社務所および台所、梵鐘は国の重要文化財。玉置山の山頂直下の9合目にあります。