移住者の人たち 1

明治16年の「晩成社」や明治29年の豊頃に入地した福島県の「興復社」の人たちは、貧しい人たちではありませんでした。

貧しい農民の増加

生まれ育った土地を離れるには、いろいろな事情がありますが、背景には社会の変化と自然災害がありました。

長男が家を継ぎ、次男は行き場所に困っていました。農家は自作農家にやとわれるか、手に入れた小さな土地で、米ではない商品作物を作り、加工して売るなどをして生計を立てていました。
従って、次男・三男は自分の農地や水田を持つのが夢でした。
更に、明治に入ると土地の値段に合わせて現金で税をとられる租祖が始まります。地主であっても地祖がはらえず、土地を失う者も出てきました。
土地を持てるようになるどころか、土地を持てない貧しい農民がさらに増えてきたのです。

新政府の政策が農家を直撃

明治政府は経済を発展させようと近代産業に力を入れて、安く大量に手に入る原料を求めるようになります。
徳島県、香川県の藍生産や愛媛県の綿生産は、外国産におされ大きな打撃を受けます。また、政府は重要な輸出品である生糸を、工場生産することで高い品質で大量につくり、世界での競争力をつけようと考えます。
小さな畑で桑を育て、養蚕をおこなう家内制手工業で生糸を生産していた人たちは、大きな製糸工場にはかなわなくなりました。

写真は富岡製糸工場です