明治11年<八雲町開拓/尾張藩主徳川慶勝>

写真は八雲開墾記念碑

旧八雲町(現在は熊石町と合併)の開拓の祖は旧尾張藩(名古屋)主徳川慶勝侯となります。
北海道開拓と併せて旧臣授産のため、遊楽部の土地の下付を願い出て明治11年、家族持15戸、単身者10名総人員72名を移住させたことから本格的に開拓が進められました。

これが、八雲町の組織的団体移住者のはじまりとなります。
その後年々移住する戸数が増加して明治14年黒岩とともに独立して八雲村となりました。

町名は明治14年に徳川御三家の一つ、旧藩主徳川慶勝侯が、豊かで平和な理想郷建設を願い、古事記所載の日本最古の和歌である須佐之男命(古事記)素盞嗚尊(日本書紀)(スサノオノミコト)が読んだ

 「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

を引いて名付けました。

松前藩時代に山越は関所がありました

その後国道の開通により、役場をはじめ各施設機関が漸次山越内村から八雲村に移り、明治35年北海道2級町村制施行により両村が併合して八雲村ができます。

明治36年に鉄道が開通し、38年に片栗粉同業組合の設立により澱粉製造業が急激に発展し、関西市場の覇権を握って“八雲片栗粉”の声価を博すようになりました。