夜なきお梅さんー苫小牧市ー

雨のしょぽしょぽと降る寂しい夜、苫小牧の勇払という海辺の家の戸を、トントンと叩く音がします。家の者が出てみますと、
「お乳をください。この子にお乳をください」と、すすり泣く女の人の声がします。戸を開けてみますと、女の人の姿は、もう、そこには見えないのです。
勇気のある人が、ある夜、泣きながら赤ん坊をかかえていく女の人を追っていきますと、八王子千人同心隊はちおうじせんにんどうしんたいのお墓の中に、消えていったというのです。

今から180年余り前の寛政かんせい12(1800)年、徳川幕府は、エゾの海に外国の船がたびたび現れるので、武州多摩ぶしゅうたま八王子千人同心隊100名に、東エゾの守りと開拓を命じました。八王子千人町(東京都八王子市)に住んでいたお侍でしたので、このような名がつけられました。
そのうち50名が、太平洋岸の、この苫小牧勇払とまこまいゆうふつという場所に入ったのです。組頭をしている若い武士、河西祐助かさいゆうすけと妻のおうめも、一行の中にいました。
何せ、いままでは、暖かい本州の八王子に住み慣れた人たちにとって、このエゾ地の生活は、想像できないくらい大変なものでした。
男も女も、みんな力を合わせて木を伐り、住む家を作ることから始めなけれはなりません。やっと、掘っ立て小屋のような、粗末な家が出来上がると、まわりのササや雑草を焼き払ったり、刈り取ったりして、ひと鍬、ひと鍬、荒れ地を起こしていくのです。大きな木の根っこ一つに、一日かかるときもあります。
少しばかりの畑でも、開かれて種蒔たねまききが出来る嬉しさは、たとえようもありません。みんな、江戸の真っ黒い土を思い浮かべて、エゾの開拓の難しさを知りました。堆肥たいひを作り、野菜が育つ土づくりから始めなければなりませんでした。

家事をあずかるお梅さんのような女の人たちは、毎日が大変です。食べ物、燃料、着るものの心配です。江戸から持ってきたものは、どんどん残り少なくなっていきます。
夜は、エゾオオカミの声を聞きながら、厳しい冬の支度のことを考え、男たちは、外国から襲ってくる敵に備えて、幕府の命ずる仕事にも、忙しく働きます。お梅さんは、いつも明るく、
「あなたは、一生懸命、お勤めに励んでください。私も、力の限り頑張ります」と、夫を励まして、慣れない毎日の仕事に気強く立ち向かっていました。

三年目、やっと苦労が実って、畑から食べ物が穫れ始め、明るい希望が出始めたころ、お梅さんは、男の子のお母さんになっていました。男の子をおぶって畑の仕事をしている時が、お梅さんにとって、一番幸せそうでした。
ところが、悪い事に、同心隊の人たちに病気が流行し、十分な手当ても受けられぬまま、次々と死んでいく人が増えました。

お梅さんは、男の子の面倒をみながら、亡くなった人の家の手伝いをしてあげました。特に、母親を亡くした家の子どものお母さん代わりになって、繕い物、洗濯、食べ物のことまで、お世話してあげます。
親切で心の優しいお梅さんは、大勢の人に慕われていました。

エゾに渡って4年目、お梅さんに女の赤ちゃんが生まれました。
けれども、悲しいことに、お梅さんは病気にかかり、赤ちゃんに飲ませるお乳が、一滴ひとしずくも出ないのです。赤ちゃんは、母親の乳房ちぶさにすがりついて、泣き叫びます。お梅さんは、一生懸命、お乳を揉みました。でも、お乳は出ませんでした。おかゆを焚いて、おもゆを作りたくても、お米は一粒も残っていませんでした。
「ああ、この子にお乳を・・・・。お乳を・・・」
折角、嬉しい女の子が生まれても、お乳を一滴も飲ますことのできない、悲しい気持ちで赤ちゃんを抱くお梅さんは、うめくようにつぶやきながら、25歳の短い一生を終わりました。

夫の祐助は、開拓の苦労をずっと続けてきて、いま生まれたばかりの赤ちゃんを残して死んでいったお梅さんを哀れんで、墓石に詩を刻み、また、不動尊を奉って、心から祈りました。同心隊の人も、お梅さんにお世話になった人たちも、みんな、心から手を合わせて、お詣りしました。

その後、この勇払のあちらこちらから、お梅さんを見た、という噂が広がりました。それが、決まって、雨のしょぼしょぼとふる夜に、家々の戸をトントンと叩き、「お乳をください。この子にお乳を・・・」と、すすり泣くように、聞こえてくるというのです。

苫小牧の人たちは、「河西梅女かさいうめじょ」と書かれたお梅さんの墓を、「勇払開拓跡公園」に奉り、市内の市民会館には「千人同心の像」を建て、労苦をいまも伝えています。