天神さまをはこんだマツの木 ―上磯町ー

上磯町とは現在の北斗市になります。

今から600年ほど昔のことです。函館に近い茂辺地という浜辺に、一本のマツの木が流れつきました。
おりから、一人のアイヌの男が、この日も漁がおもわしくないので、村へ帰ろうとしている時でした。ふと、浜の方を見ると、そのマツの木が目に留まりました。
このところの不漁の続きで、すっかり気を落としていた男は、そのマツの木を村へ持ち帰り、たき木にでもしようと思い立ちました。さて、岸に引き上げようとして、よく見ると、枝と枝との間に70㎝ほどの木彫りの天神さまが乗っているではありませんか。
「これは、たいへんなものを見つけたぞ。さっそく村へ持ち帰って、みんなに見せてやろう」と、たいせつに持って帰ることにしました。帰りの道みち、天神さまをよくよく見ると、その像のできばえといい、顔の表情といい、何ともいえないほどの美しさでした。

村では、その日から、木彫りの天神さまの噂が広まり、アイヌの人たちは、その像を見ようと、男の家へおしよせてくるようになりました。これでは、仕事もおちおち出来ません。困り果てたその男は、村の長老ら相談することにしました。
次の日さっそく、木彫りの像をかかえ、長老の家を訪ねて0相談すると、長老は、
「なるほど、この出来栄えからすると、よほど、由緒のあるものに違いあるまい。お堂を建てて、奉ってあげなさるがよい」というのでした。
男は、すぐに村のみんなの手を借りて、お堂を建て、天神さまを、たいせつにおまつりしました。

ところで、その天神さまを運んで、浜辺に打ち上げられたマツの木は、その後、不思議なことに、浜辺にしっかりと根を生やし、命をよみがえらせたということです。
それからというもの、あれほど不漁続きだった茂辺地もへじの浜には、たくさんの魚が集まり、貧しかった村は、たちまち豊かになり、不漁に悩まされることが、なくなったということです。

ところが、良い事は、そう続かないものです。茂辺地の崖に、茂別館もべつのたてというやかたを築いていた下国家政しもくにいえまさという領主さまが、この話を伝え聞いて、天神さまをお祀りしたお堂を訪れた時のことです。
領主さまは、お堂の扉を開き、天神さまをひと目見たとたん、あまりの美しさに心を奪われてしまいました。領主さまは、日ごろから、神仏を信仰していたので、その像を館に持ち帰り、自分の館の守り神にしてしまったのです。

天神さまを失ったアイヌの村では、また、不漁に悩まされることになったのですが、そのころから、アイヌの人たちと、和人たちの仲が悪くなりはじめました。
ちょうどそのころ、志濃里の刀かじの所に、ひとりのアイヌの少年が訪れました。少年は、父親に頼まれ、マキリ(小刀)を作ってもらうために来たのでした。そして、そのかわりとして、サケ10ぴきを用意してきました。
ところが、刀かじの渡してくれたマキリは、とても切れあじが悪く、そのうえ、サケ10ぴきでは不足だというのです。あまり切れないマキリを持って帰っても、父親に叱られるのでしょうし、もう、これ以上サケを用意することもできません。
困り果てたアイヌの少年は、刀かじに、何とかもっと切れるマキリが欲しいこと、サケはこの10ぴきで我慢してほしいことを、頼み込みました。すると、刀かじは、かんかんに怒って、アイヌの少年を刀で切り殺してしまったのです。

それを知ったアイヌの村では、酋長のコシャマインを先頭に、和人たちに、戦を挑みました。いままで、意地悪をされたり、押さえつけられていたアイヌの人たちの怒りが、いっきに爆発したのでした。
勢いにのったアイヌの軍勢は、和人の館を次々に攻め落とし、茂辺地の領主、下国家政の茂別館にも攻め寄せてきました。
アイヌの軍勢は、館を二重、三重に取り囲み、弓をひき、矢をはなちました。しかし、どうしたわけか、この館にだけは、矢が一本もとどかないのです。
そればかりか、放った矢は味方の方にももどってきて、たくさんのアイヌの人が、矢にあたって死んでしまったのでした。これには、さすが、勢いにのったアイヌの軍勢も、大混乱し、やかたを攻めるのをあきらめ、退却していきました。

この様子を見ていた領主の家政は、ただただ驚き、これはきっと天神さまのお力に違いないと、それからも、なおいっそう、マツの木が運んだ天神さまを、大切にしたということです。
そして、この地を、矢の来ない土地ということで、矢不来やぶらいと呼ぶことにしたのでした。その後、この天神さまは、矢不来天満宮やぶらいてんまんぐうの神殿に移され、今でも、静かにまつられています。

矢不来天満宮
北海道北斗市矢不来138 道南いさりび鉄道「茂辺地駅」下車から徒歩13分
道南12館(たて)の1つ茂別館に隣接。「矢が来ない」ことから、参拝すれば「負けない」、御朱印をもらえば「目標達成」と人気。