観光客が行かない斜里町の旅
世帯数5290世帯 10,813人 (令和4年2月末現在)          

ウトロのゴジラ岩

「斜里(しゃり)」の地名はアイヌ語のサルまたはシャルより転化したもので「アシの生えているところ」ということです。
人が住み始めたのはおよそ3万年前。先土器時代と呼ばれ、北ヨーロッパからシベリアを経て、北海道北東部にわたる北アジア文化圏の一端を形成していました。奈良朝から平安朝の頃、大陸方面からオホーツク海沿岸を南下してきた海洋民族がおり、この民族は従来の北海道には見られなかったもので「オホーツク文化」といわれています。宗谷に上陸しオホーツク海沿岸を南下し、北千島に至る過程で斜里町にも多くの遺跡を残しました。
アイヌ文化期の初期には、いかなる民族の支配も受けず大陸との交易は宗谷、樺太を通して行われていたといいます。(網走博物館に興味深い資料がたくさんあります) 

チャシコツ崎
ウトロの街に入る手前に、海に突き出した亀のような崎(みさき)があります。伝承によると、この先にあるウトロのオロンコ岩に立てこもるオロッコ族に対抗するため、アイヌは崎に砦を築いたといいます。全体がアイヌ民族の聖地とされていますが、北海道にはこのようなチャシ(砦)があちこちに見られます。
岩の高さは48mあり、ウトロではオロンコ岩に次いで大きな奇岩となっています。外部からの襲来を発見するには最高の砦だったのでしょう。
この崎に8~9世紀の「オホーツク人」集落跡があり、「チャシコツ岬上遺跡」として国の史跡に指定されています。

「知床8景」とは、フンベの滝・オシンコシン展望台・カムイワッカ湯の滝・夕陽台(ウトロ)・知床五湖・知床峠・オロンコ岩・プュニ岬です。

オロンコ岩(左の写真)がウトロの拠点となります。

ウトロ港は、漁港であり知床観光船の発着場でもあります。このオロンコ岩駐車場の一角に松浦武四郎の碑があります。彼は知床に三度訪れていますが「知床日誌」に次の歌を詠んでおります。 

「山にふし 海に浮寝の うき旅も慣れれば慣れて 心やすけれ」

武四郎が通ったコースで岬を羅臼側から回った時があります。標津から海岸沿いに羅臼に至り、ここから舟でマッカウシ(ひかりごけ)に泊まり、さらに大きく知床岬を廻ってウトロに上陸、ここからは海岸線を通って斜里に抜けました。

宇登呂崎(うとろみさき)

宇登呂崎

世界自然遺産は温泉街宇登呂(ウトロ)が拠点になります。
ウトロ崎は国道334号から左折して、知床観光船の乗り場に向かって突き当りにあります。観光船に乗るためには、右手にゴジラ岩を見てオロンコ岩をくりぬいた「オロンコ隧道」高さ約60mの巨岩を通ります。この巨岩に先住民族「オロッコ族」が居住し、トナカイ牧畜や狩猟、漁労で生活していたようです。岩の頂上で発掘調査を行ったところ、土を浅く掘り下げた炉の跡が発見されていることから、オロンコ岩チャシ(砦)とも呼ばれます。
岩の斜面に遊歩道が作られ、頂上まで登ることができます。約230段の階段は大変ですが約10分で登ると頂上に到着。平らな頂上は原生花園、キリンソウやエゾゼンテイカなど野花が咲きます。遊歩道も設置されていて、知床連山・ウトロ温泉街・ウトロ港・チャシコツ崎など360度の美しい眺望が楽しめます。

 斜里平野(しゃりへいや)

ジャガイモ畑

知床半島の付け根に斜里平野があります。斜里岳 (1,545m) を開析して北流する斜里川、止別(やんべつ)川などの河川によって形成された山麓部の台地です。格子状の畑を区切る防風林や斜里岳山麓の森は今の斜里平野に暮らす人々の原風景です。 
←ジャガイモ畑  
夏冷涼のため水田はほとんどなく、ジャガイモ、テンサイ、豆類を中心とする畑作と酪農地帯です。一辺500mの碁盤の目状に道路と耕地防風林が整備された開拓村が美しい村の風景です。コムギ,バレイショ,テンサイの栽培面積・収穫量ともに全道の25~40%を占めています。  

斜里町のはじまり 
斜里には道の駅が二か所、ウトロと斜里駅(釧網線)前にあります。二つの地区は歴史が全く違うため同じように捉えることができません。

明治5年、村名が定められ、ヤンベツ村、シャリ村、シマトカリ村など5ヵ村が誕生しました。
明治10年には斜里浦役場が設置され、斜里町農業開拓の先駆者鈴木養太が斜里村赤上1番地で初めて開拓の鍬を打ち下ろしました。
明治30年代に国有未開地の貸し下げが行われ、斜里内陸の開拓がはじまります。大正2年になって三井合名会社、大正7年に富士製紙会社が、斜里山麓の伐採跡地の未開地に大規模な農場を開き内陸の奥地に農村集落ができました。大正14年には網走線の網走~斜里間が全通し、斜里村の人口が急増となりました。

(植民軌道斜里線)
斜里線とは、現在の斜里郡斜里町から海岸沿いに東に延びて知布泊までの路線のことです。斜里線17.9キロの完成は昭和7年12月で、馬力で開始でした。
着工したのは昭和6年5月で、この年の9月に釧網線斜里~釧路間が全通し、斜里市街はこれまで以上に賑やかになりました。その市街地と直結する植民軌道ですから沿線住民に大きな利便性をもたらすものでした。老朽化もあり、昭和26年に停止し翌年廃止となります。

しれとこ斜里ねぷた(斜里駅前の道の駅には「津軽ねぷた」があります)

道の駅しゃり

シャリの運上屋の創設は1790年でした。当初は宗谷場所の管轄でした。1806年にロシア船が往来、樺太に上陸し略奪が行われたため、幕府は蝦夷地全域を直轄としオホーツク海岸・樺太の警備を強化。この時に津軽藩が北方警備を命じられます。
シャリで駐屯、越冬した100人中72人が極寒の中で栄養不足による浮腫病で死亡となりました。

斜里町民公園には津軽藩士殉難慰霊の碑が立てられ、斜里町と弘前市は友好都市の提携をしています。津軽藩士シャリ陣屋跡、津軽藩士墓所跡、シャリ運上屋(会所)跡は斜里町の文化財に指定。毎年、7月に『しれとこ斜里ねぷた』が開かれています。

牛来 昌(ごらいさかえ)

牛来 昌
ごらいさかえ

知床世界自然遺産はこの人が立役者でした。「北海道ゆかりの人たち」に詳しく書いてあり、HPのアクセスでも人気の一人です。1936(昭和11)年、ウトロに生まれ、昭和30年代にウトロに来る報道関係者の案内をしていました。
最大の危機は、1986年林野庁北見営林支局が知床国有林の伐採計画を発表。翌年、強行伐採後の斜里町長選で初当選。バブル期にはさまざまなリゾート計画を阻止、知床の世界遺産登録を目指し2005年に実現させました。