道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

尚、このCDは現在「北海道立図書館北方資料室」にあります。
私が借りた時は「北海道立文書館」でしたが変わりました。

 

今金町 1965年(昭和40年) 28分 白黒 音声あり 

いまかね町名の由来は、明治26年に入植した今村藤次郎と金森石郎の頭文字をとって付けたものです。
明治30年瀬棚町から分離し利別村となり、昭和22年に改名して今金町となりました。

カニカン岳
江戸時代にカニカン岳の砂金採取が、この地の開拓のはじまりで、この砂金は日光東照宮の造営にも用いられました。
明治30年、瀬棚村から分村し利別村となってからマンガン採掘が本格化し人口が増えていきます。
それ以前の明治24年に犬養毅が政治資金を得るために利別原野で大農式開墾を行いましたが失敗しています。

インマヌエル協会
明治24年、現在の神丘地区に京都府のキリスト教徒が入植。牧師であるリーダーの同志社大学の志方之善が理想郷建設を計画。その後、妻である荻野吟子も渡道し、後に瀬棚に産科・小児科を開業しました。神丘地区には現在日本聖公会のイマヌエル協会が建っています。

今金八幡神社
明治26年、今村藤次郎、金森石郎らが入植し今日の今金町の基礎ができました。
明治29年、今金開拓移住者らが協議の上、函館八幡宮より応神天皇・神功皇后の2柱を分霊奉斎し八幡神社を創立しました。銅像があるようですが、誰なのかはわかりませんでした。

美利河ダム湖
昔から地下資源が豊富で、かつてはマンガン鉱で美利河地区が栄えましたが、今は閉山しています。現在は、美利河ダム湖を中心に、宿泊施設も建ちリゾート地域に変わっています。
また、美利河ダム建設中に美利河遺跡を発掘。大型海牛の化石が発見されています。当時、大理石は道庁の新校舎に使用されています。また、鉱石を利用して、ブローチ・灰皿、そうしてメノウが人気になってビジネスになっており貴重な映像です。

農業
町の人口の6割が農家で、桧山地域の米どころとして年間8憶の生産をしています。
土地の開発に農協が移動客土を導入して支援をしています。
街の中心地の「農協デパート」が農家7000人の利便性を図っています。何から何まで店頭にあるので不自由しません。

酪農
昭和34年に農林省から酪農の指定を受けて重要な役割を果たしてきました。
酪農、特に牛になりますが原野を開拓して牧草地にしなければ牛の牧場になりません。そのために200ヘクタールを拓いたのです。
今は明治乳業の工場ができて、1日40tの乳牛を集荷して、近代的な工場で乳製品を作っています。

アスパラと男爵イモ
白いアスパラを農業生産として推奨をしています。価格が安定しており、昭和36年にアスパラ工場が作られました。今金だけではなく、5~7月の最盛期には七飯など近郊都市からも集めて缶詰にし、50%は外貨を稼いでいます。
馬鈴薯、今金は男爵イモの産地です。男爵イモ焼酎も開発され販売しています。
この芋掘りですが、面白い風景がありました。芋の取入れともなれば人海戦術で家族総出となるのですが、芋掘りに馬で引く芋掘り機械が写されています。これは貴重な映像でした。

補填
当時は1987年(昭和62年)3月16日に廃止された国鉄瀬棚線が町内を通っており、美利河駅、花石駅、北住吉駅、種川駅、今金駅、神丘駅の5駅が設置されていました。
これらの映像はありませんでした。

                               以上