道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

尚、このCDは現在「北海道立図書館北方資料室」にあります。
私が借りた時は「北海道立文書館」でしたが変わりました。

 

中富良野町 1965年(昭和40年) 28分 白黒 音声あり        

中富良野町の企画で札幌テレビ(現STV)が16mmフィルムで町を収め、昭和40年に全北海道に放送した町の紹介です。

映像は中富良野町の高台から、町の全景と十勝山脈を映し出したところから始まりました。
そうして、旭川から来る列車が映り、中富良野駅で下車する乗客がおります。
人口1万人の80%が農業従事者で、米作りを中心として経営の安定を図ってきた町です。
国道237号が街中を縦断しており、この国道を農業トラクターや馬車が闊歩しており、昭和40年とはいえ田舎の風景が映っています。
街の中心地に三階建ての農業協同組合の建物があり、一階が食料品売り場。2000人の組合を持ち、毎日の食糧から日常品がすべて、この売り場で求めることができます。

中富良野町役場
役場の教育方針が語られています。役場の中庭には噴水があり、町民の癒しの公園になっています。
教育方針は「子は宝」とし、2億円の投資をして整備を進めてきました。昭和37年に町の中央部に3つの学校を閉鎖して一か所に集めました。健康な子供の成長をと考えて小学校に近代的な設備が整った体育館を新設しています。
また、子供の交通機関としてスクールバスを設置し、国道237号の交通ラッシュにも安心して学校に通えるようにしました。このバスは町に来る町民も乗ることができます。

中富良野神社
明治35年に天照大神を中心として農作物の神を祀って作られました。毎年9月には秋祭りを開いており、町民の楽しみの一つとして定着しています。大きなイベントは二つあり、相撲大会で「子ども相撲」と「大人の集落対抗相撲」です。
もう一つは「ばん馬競争」です。馬は開拓時代から密接なつながりを持ち、伝統的な力比べで盛り上がります。

上空からの風景
中富良野町を上空から映している風景です。3500ヘクタールという水田一色の町が眼下に映し出されています。
9月の祭りも終えて、稲刈りの真っ最中です。この町に開拓に入った人たちは北陸や東北の稲作のプロが多くいました。明治31年に寒さに強い「赤毛」の稲を取り寄せ、稲と土地の改良を繰り返して冷害に強いイネを育ててきました。その誇りをもっています。
稲刈り⇒モミ⇒新米⇒俵詰め⇒検査(3・4等級と等級が決まる)⇒農協倉庫⇒買い手が決まり⇒釧路・根室へ出荷
休み暇もなく⇒泥炭地に暗渠の作業(土地排水パイプ)⇒傾斜地はブルで平地へ と一連の作業が続きます。
畑作はバレーショ・玉ねぎの収穫

中富良野開拓の歴史
明治28年、富山出身の伊藤喜太郎は岩見沢の幌向原野で開墾していましたが、西崎源右衛門と知り合い、西崎が中富良野に合力農場の交付を受けたため番人として入地しました。ところが密林で湿地だったため西Ⅰ線北19号付近の菅原を貰い受けて開墾したのが始まりでした。
明治29年富良野原野に植民区画が設定され、5町歩の賃下げを受けて上村卯之助が入地、検査合格者第一号で開拓入植に成功した最初の人といわれています。
明治30年に石川団体が入植。大正6年に分村独立し中富良野村となります。
しかし、これは泥炭湿地の不毛な原野の排水工事の負担を考え、上富良野側が中富良野を切り離す意向もありました。
2年後に湿地帯は排水の完工により、さらに開拓が進み水稲栽培が発展しました。

以上