道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

尚、このCDは現在「北海道立図書館北方資料室」にあります。
私が借りた時は「北海道立文書館」でしたが変わりました。

 

上川町 1967年(昭和42年) 28分 白黒 音声あり 

この映像は昭和42年、北海道内にテレビ放映されたものです。
上川町は旭川の奥座敷層雲峡がある町ですが、観光が始まるころの映像で貴重といえます。カラーでないのが惜しまれます。

明治24年、北見道路が開通し越路駅逓(現・市街地)ができ、翌年中越駅逓(上川国道・国道273号)が設置されました。それにより、明治28年(1895年)宮城県から本田喜市が越路27線に入地したのが上川町のはじまりで、これが町の開基となりました。その開基の碑が映像にでてきます。

大正12年、鉄道が開通(石北本線)しさらに発展し、翌年、愛別村からの独立にあたり石狩川上流の意味で上川村と命名されました。

枕木・パルプ材の需要で林業がはじまり、製紙工業の発展でさらに盛んになり、森林の町「のびゆく上川」となります。映像は昭和40年前後の「上川駅」が映されています。何両も連結された垂木の列車は、観る者を圧倒します。材木工場は町に25か所あり、昭和37年には10億の産業だったといいます。

層雲峡と層雲峡温泉
1857年(安政3年)に発見された現在の国道36号沿いの層雲峡温泉は、明治30年代になって開発が進められます。大正期に入ると塩谷水次郎が温泉を開き、その後権利を買収した荒井初一が私財を投じて道路を開削し発展します。
大正10年、文豪・大町桂月(おおまちけいげつ)が大雪登山のためこの地を訪れ、アイヌ語のソウウンベツにちなみ「層雲峡」と命名しました。上川町の市街地は越路地区で層雲峡までは車で20分ほどかかります。

大雪山のうちの一つ黒岳への登山口に層雲峡温泉があります。
この層雲峡ロープウェイ営業開始が昭和42年でした。それまで2時間はかかった黒岳へ10分で登頂できると観光に拍車がかかりました。この映像も貴重です。
大雪高原温泉の秋の紅葉は「日本一の紅葉」として知られ、紅葉時期には国道39号線は交通規制がなされるほど混雑します。
流星の滝、銀河の滝を中心とする数多くの滝や、小函(こばこ)、大函(おおばこ)を中心とする柱状節理の岩壁などが見所。石狩川の上流、約24キロにわたって断崖絶壁が続く景観が映像に映し出されています。カラーであればと残念です。年間100万人の観光地となりました。

三国峠
旭川から国道39号で層雲峡を過ぎると、帯広に向かう国道273号が右手に見えてきます。この道が大雪山の東側を通る道で、北海道で最も高い「三国峠」があります。
この峠は、当時はまだ通じておらず開削作業中でした。昭和39年から始まり、完成するのは昭和46年です。現在、上川町と上士幌町の境はトンネルの中で通過しトンネルを過ぎると展望台があります。視界の先にはトドマツ・エゾマツの広大な樹海が観る者に迫ってきます。
この樹海は今でも絶景ですが、当時の樹海が白黒ですが映されています。

上川町の行政取り組み
町は昭和31年から共稼ぎ夫婦が増加し、それに対応すべく対策が取られていました。
まず、町に10校(少学校9校・中学校1校)ある給食を「給食センター」を作り全校給食を出すことにしました。更に、保育所の設置で子どもを預けて安心して働く体制としました。

町の面積の90%が山岳地帯で、わずかな平地の利用で水田を作ります。
パイロットファームに参加し、450ヘクタールの酪農への参画を昭和37年からスタート。
更に、農家の副業として「ニジマスの養殖」を推進し層雲峡温泉旅館のメニューとして150万匹を育てます。

層雲峡温泉
昭和36年からスタートした「渓谷火祭り」は、火祭り・夏祭りで「アイヌの踊り」を含めて観光客を集客しました。

昭和42年は、明治28年(1895年)宮城県から本田喜市が越路27線に入地してから開基72年になります。

                                以上