耳寄りな話(大正9年)

上士別16線12号(上士別市街地まで約6㎞)から奥の方で「造林事業」が行われることになり、人夫が6~70人ほど募集があるというのだ。常三郎はまんと相談して、自分たちの土地を隣の中垣に貸して作ってもらい、貸し賃は謝礼だけでよいとした。中垣のところは働き手が成長し、労働力があった。

まんの姉は16線12号で亭主の北岡とともに雑貨屋をやっていたが、16線7号へ出て出店をしたがっていた。そのため12号の店を売りたがっていた。
4月10日に12号に引っ越し、大和新団体での生活は満3年で終わった。

南沢
16線9号(上士別市街まで約5㎞)あたりから奥の方を通称「南沢」と呼んでいた。ここは、徳島県下からきた人たちが多く「恵比須団体」と呼ばれていた。
明治40年の6戸をかわきりに、その後随時移住が増えて、大和新団体なみの開拓状況になっていた。

4月20日、人夫の採用面接があり飯場建築の大工を探していた。
常三郎はそれを引き受け、「5月30日までに完成させてほしい。材料は全部こちらで準備する。棟梁大工としてやってもらうが、何人の大工をそろえたらできるか」「6人の大工を揃えてもらえればできます」「できれば大工もあなたがみつけてほしい。棟梁としての日給は2円50銭。ほかの大工は1日1円20銭。これは営林署からの通達なので、そのとおりにします」

大工募集の張り紙をすると2日後には6人の大工が応募してきた。
まん」は、常三郎が毎朝大工道具を持って出かけると上士別の市街へ行き商品の仕入れをして、片道6㎞を、40キロの荷を背負い、両手にも3キロずつ持って帰るのだった。

6月に入ると70人からの人夫が飯場で寝泊まりするようになり、たった一軒しかないまんの店は売れ行きが良くなった。常三郎は、そのまじめな働きぶりが所長に認められ人夫頭にとりたてられた。人夫賃は1円10銭の日給だったが、人夫頭ということで1円80銭が支給された。

日曜日は休みなので、商品の仕入れに上士別まで天秤棒を担いで往復した。
時には農家の馬車を借りて士別まで仕入れに行くこともあった。馬と馬車の借り賃は2円も払うと喜んで貸してくれた。

ちょうどこの年(大正9年)6月1日から、士別軌道株式会社が、士別、上士別に馬鉄を走らせはじめた。
馬は馭者(操る人)の所有で、一日の日当が4円50銭、高給だと評判になった。
常三郎は、重たくない商品の仕入れは、この馬鉄にのって往復し上士別市街から南沢までは天秤棒をかついで帰るのだった。

鉄路の旅 3 (士別軌道)