クナシリ(国後)・メナシ(根室)のアイヌ民族に対して、飛騨屋は毒殺などの脅迫で魚肥製造に駆り立て、越冬食糧の準備の暇も与えず生活は飢餓に瀕しました。更に、飛騨屋使用人によるアイヌ女性への強姦も多発していました。                         

武装したアイヌ41名が、国後島泊村の運上屋を襲い国後島を制圧し、対岸のメナシに渡り、同地のアイヌに蜂起をよびかけ、ネモロ場所のアイヌもこれに応じて立ち上がり和人の商人や商船、陣屋を襲撃し殺害したのです。

その後も、対岸のアイヌ首長ホロエメッキが反乱を起こし、忠類河口沖に停泊していた飛騨屋の交易船大通丸を襲撃しメナシの和人を殺害しました。

和人71名、生き延びたのは4名でした。

蜂起に立ち上がったアイヌはクナシリで41名、メナシで89名、計130名にのぼりました。これは1789年(寛政元年)5月のことです。

この蜂起には、ツキノエ(国後)、ジョンコ(根室)、イコトイ(厚岸)などこの地域で最も力のある首長は加わっておらず、次の世代の若手アイヌたちの指導のものとに決行されました。

蜂起したアイヌは、松前藩の反撃のため各地にチャシを構え、戦闘態勢に入りますが、そこに厚岸アイヌの長イトコイと国後アイヌの長ツキノエが現れます。

二人は蜂起軍をなだめ説得をします。

報告を受けた松前藩も鎮圧に赴き、7月264人の鎮圧隊をノッカマップに上陸させます。隊長新井田孫三郎はツキノエ、ションコらに蜂起の関係者を集めよう命じます。
国後の131名、メナシの183名、合計314名が投降し、反乱参加者をノッカマップ(野釜布、現・根室市東部)に護送しました。

取り調べの後、8人の反乱指導者、和人殺害の下手人29人のあわせて37人を有罪と判断。
蜂起の中心となったアイヌは一人ずつ首をはね、6人目の時、牢内で呪いの大声が起こり、今にも牢を破ろうとしていたので残りの者を次々と処刑します。
首は塩漬けにし、胴体はムシロに包んで埋め、その首は松前に持ち帰り立石野でさらし首になりました。

蜂起は幕府にも知らされ、松前藩はこの地を藩直営地とし、松前の者だけに交易を行わせ、アッケシ、ソウヤに番所を設けるなど「改正」を行いました。
そうして、飛騨屋を罷免し、その場所を松前の有力商人阿部屋村山伝兵衛が実質的に請け負う形(名目は藩直営)となりましたが、場所請負人の横暴は変わらず支配が強化されただけでした。

幕府老中松平定信は、最初は蝦夷地開発消極論でしたが、1791年(寛政3)には、幕府による調査、交易も実施され、和風化政策へと転換していきます。

アイヌ三大蜂起の最後に位置付けられるこの「クナシリ・メナシの戦い」は、松前から遠く離れたアイヌの独自性が強く残っていた地域に起こったことが特徴的でした。
この蜂起は、この後に、蝦夷地・国後のすべてのアイヌ社会が、幕藩国家の支配領域に経済的・政治的に組み込まれていく重要なできごとでもありました。

ツキノエ

クナシリ・メナシの戦い後、松前藩は42名の功績があったアイヌを招待しますが、ツキノエ・イコトイ・ションコは松前には行きませんでした。
ところが、蠣崎波響が描いた「夷酋列像」には含まれています。つまり波響はツキノエらを見ないで描いていたのです。このことが何を意味していたのかが研究者の課題でもあり、描かせた松前藩の策略が含まれていたのでしょう。

 蠣崎波響については「北海道ゆかりの人たち」に書いてあります