松前藩はアイヌの蜂起は飛騨屋に原因があるとし漁場を取り上げました。しかし、その原因を作ったのは松前藩でした。さらに、幕府は飛騨屋も松前藩も問題はないとして、この事件を終息させました。

ところが、ロシアの南下には何らかの手を打たなければなりません。
アイヌの蜂起から三年後の寛政4年(1792)、ロシアのエカテリーナ2世女帝の正式な使節ラクスマンが日本に通商を求めてネムロに来ました。
伊勢の漂流者幸太夫(又は光太夫)ら3人を伴って来航、交易を願い出ます。エカテリーナの国書を持参していました。
松前藩は幕府に報告し、幕府は急遽宣諭使(せんゆし)を松前に派遣しました。宣諭使は翌年ラクスマンと福山で会見、漂民送還に感謝するとともに鎖国の趣旨を説明、国書は長崎でなければ受取れないと拒絶しました。

寛政8年(1796)、こんどはイギリスのブロートンが指揮するブロビデンス号が内浦湾に現れます。三方火山に囲まれた内浦湾を、噴火湾と称したのはブロートンでした。蝦夷地はふたたび風雲急を告げてきました。

道東のアイヌに対して信頼回復のために「御救交易」を行います。これは、ロシアが千島列島を南下することに脅威を感じ、松前藩のような小藩に任せておけなくなったからです。

幕府は津軽藩に箱館警備を命じ、寛政10年(1798)には蝦夷地調査に派遣しました。調査隊は東・西蝦夷地の二隊に分かれ、東蝦夷地の近藤重蔵に随行した最上徳内は、これで6回目の探検です。近藤らは国後・択捉に渡り「大日本恵土呂府」の柱を立てました。西蝦夷地は宗谷まで調査しました。

この時、択捉からの帰途、十勝の広尾の海岸通行に難儀した近藤重蔵は、山道三里半を開削しました。これが蝦夷地道路開削のはじめといわれ、重蔵が残した「東蝦新道記」は、道の文化財になっています。

広尾町の旅(黄金道路)に近藤重蔵のことを書いています。

この翌年にいよいよ高田屋嘉兵衛が登場しますが、このことは後で書きます。