寛政(1789年から1801年)の元号を知っておくと「蝦夷通」になります。
徳川11代将軍家斉
の時代です。 

メナシ(根室)、厚岸、クナシリ島で、最初に交易を行った商人は、飛騨国増田郡湯之島村(現:岐阜県下呂市)飛騨屋の4代目武川久兵衛でした。
松前藩は、飛騨屋に借金があったため返済の変わりに、クナシリなどの交易権を与えたのです。

ところが、ロシアは毛皮をもとめて千島列島に進出していました。
1778年にはロシア人シェパーリンがクナシリアイヌの首長ツキノエの案内で、ノッカマップに来航、日本との交易を求めたのです。
そこで、ツキノエはロシア商人を連れて、日ロ交易の橋渡しをしようとしますが、松前藩にそのような高度な政治判断は無理です。「余計なことはするな」と怒ります。
1782年、苦渋の選択の上、クナシリアイヌは飛騨屋を受け入れました。
ところが、ここから地獄の日々がはじまりました。

ロシア商人との結びつきを松前藩や飛騨屋に誇示し、飛騨屋の交易は頓挫していた。従って、飛騨屋は今までの分、つまり松前藩に貸した膨大なお金、数年にわたってアイヌに拒否されていた交易の利を一気に取り戻そうしたのです。

そのために、飛騨屋が取った策はアイヌ歴史の新たな展開となりました。
これまでは、和人の場所経営は交易と決まっていました。交易の有利・不利が争点になっていましたが、今度はアイヌの人たちを漁場で働かせることにしたのです。

更に、飛騨屋は過酷なアイヌ使役を行うようになりました。
鮭〆粕をつくるために、クナシリやメナシのアイヌを強制的に使役しはじめたのです。シベツ(現標津)では、毎日働かされるため、自分たちの冬の食料を捕ることもできなく、報酬もわずかでした。
シトノエという女性は番人による薪で強打され、ついに死んでしまいました。
シベツのシリウの女房と妾は番人に暴行されたので、シリウは抗議しますが聞き入れられません。

クナシリでは、支配人がウチクンという女性を女房同様にし、子どもまで産ませ、その他多くの女性が犯されたので、男たちは抗議を繰り返しますが受け入れられませんでした。

雪が降るまで毎日働かされたので、冬の食料のたくわえもできず、餓死するものもでるほどでした。

いつアイヌが立ち上がっても不思議でない状況の中で、病気中のクナシリの総乙名サンキチが運上屋から贈られた酒を飲んで死亡。
さらにサンキチの弟マメキリの妻も運上屋からもらった飯を食べて死んでしまいました。

日ごろから毒殺すると脅されていたアイヌたちは、うわさが本当になったと思いました。

1789(寛政元)年5月、クナシリ場所のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し「クナシリ・メナシの戦い」が勃発します。