男爵イモはこの人!

川田 龍吉(かわだりょうきち) 安政3年~昭和26年 実業家。
父親は岩崎弥太郎とともに三菱グループ創設に尽力し、日本銀行3代目総裁となった川田小一郎。40歳の時に、父小一郎が男爵の爵位を授与されますが、翌年に急死、長男の龍吉が男爵を継承

北斗市のトラピスト修道院の近くに「男爵資料館」があります。
しかし、残念ながら現在は開館していません。確認をしてから訪ねてください。

川田 龍吉は造船技術を学ぶために21歳でイギリスへ留学。グラスゴー大学で機械工学を学び、ロブニッソ造船所で舶用機関術を修めました。
この間、しばしばスコットランドの農村を訪れ、そこでじゃがいもに出会い「偉大な工業国は偉大な農業」であることを知ります。

イギリス人女性ジェニーと知り合い恋人となり、デートでは畑を眺めたり、温かいじゃがいもを食べたりすることが楽しみでした。二人は結婚を約束しましたが、当時は国際結婚が難しい時代で、父親の大反対で婚約はなりませんでした。

イギリスから帰国後三菱製鉄所、日本郵船を経て1893年(明治26年)横浜船渠会社取締役となり1897年(明治30年)社長に就任。
その前年、父急死のため男爵を継ぐ。1903年(明治36年)社長辞任。
この間、横浜船渠在勤当時の1901年(明治34年)、横浜の貿易商会がアメリカから輸入したロコモービル社製蒸気自動車を購入、自ら通勤などの際に運転していました。
このことから、龍吉は日本最初のオーナードライバーであるといわれています。現在は男爵資料館で保存展示されており、国内に現存する最古の自動車とされています。

1906年(明治39年)日露戦争時の造船不況に喘いでいた函館ドックは、技術家であり造船事業経営の経験のある龍吉に会社再建の白羽の矢を立て社長に招聘。龍吉は北海道へ渡ります。
強力な人脈を通じた株主探し、横浜から信頼の置ける技師や職工を採用、職制の改革等、積極的な策を実践して会社再建に成功。

1908年(明治41年)函館市の風景がイギリスに似ておりジェニーのことを思い出しました。ジェニーと一緒に食べたじゃがいもをこの地で育て食べてみたいと
思い立った川田龍吉男爵は、イギリスやアメリカから様々な種いもを取り寄せて試験栽培を行ないました。
その中で「アイリッシュコブラー」という品種が北海道の地に一番適しており、普及させることに努めました。

後に、このじゃがいもは「男爵様が育てたいも」から農家が「男爵いも」と名付けられます。