道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

尚、このCDは現在「北海道立図書館北方資料室」にあります。
私が借りた時は「北海道立文書館」でしたが変わりました。

 

阿寒町 1964年(昭和39年) 28分 白黒 音声なし  

昭和39年、阿寒町の企画で札幌テレビが作成された16mmフィルムで全道に放映されました。音声が入っていないので、観る者は想像しながらの鑑賞です。

東京オリンピックの開催される年です。
マリモで人気が爆発的となり、今では信じられないほどの大勢の人が阿寒湖を訪れています。
阿寒バスの全盛期でしょう。観光バスガイドは人気の花形だったと映ります。
阿寒湖に浮かぶ二階建ての観光船は何隻も行き来し、桟橋には何隻も待機している状態です。

アイヌ民族の舞踏は今日でも珍しい観光の目玉となりますが、当時としては日本人に新鮮に映っていたと思われます。この時代には、まだ先住民族の認識はありませんでした。しかし、今と比べると舞に民族の誇りと重みを感じます。

熊彫りの実演

現在の阿寒観光地

旭川出身のアイヌ彫刻家砂澤ビッキーもアイヌコタンで観光客に、シャンソンを歌いながら熊を彫っていました。それを見ていた大宅壮一が紹介して、一躍阿寒が全国に知られることとなりました。
熊彫りの実演が映っています。ビッキーはどのような実演だったのかを、この映像を見て初めてイメージがわかりました。これだと、人気が出ると思います。今も、この映像のようなパフォーマンスができないものかと思いました。

阿寒町はレジャーリゾート

ライフルのハンターが映されていました。今は実現できることではありませんが、阿寒観光は「マリモ」だけではなく、一年を通してレジャーリゾート基地でした。
スケートありスキーありと今に通じるオールラウンドを創造していたのでしょう。

阿寒町開基80周年記念行事

阿寒町の開基を推測すると、この映像を写した昭和39年から遡ると1884年(明治17年)になります。
阿寒郡戸長役場を設置したのが1887年ですから、この開基は何をして基準に決めたのかは理解できないところです。また、阿寒町の歴史を見ると1986年に100年周年記念とありますので、これを当てはめれば80周年は1967年ということになります。
しかし、明治30年(1897)舌辛原野に愛知県の安藤利右衛門が、続いて武隈作平が富山団体を率いて入植しました。これを、開拓者としてどのようにとらえているのかが分かりませんでした。
更に、鹿児島県人前田一族の貢献を忘れてはなりません。開拓者に対する貢献の表彰式風景が映されていますが、音声がないので残念です。

最後は、観光バスが北海道に見えるといわれる「ペンケトー」の湖を目指して走るところで終わりです。
                                                                    以上