屯田制を北海道に実施するという考えは、幕末から様々な方面に生まれていました。
坂本龍馬は幕府が倒れたら武士は無職になるので、みんなで蝦夷地に行こうと話て実際に仲間を派遣していました。
これが夢でなくなったのが、徳川家の遺臣を移して北方警備と開墾に従事させようとしたのが榎本武揚で、この計画を掲げて新政府と函館戦争を戦ったものです。
しかし、現実のものとなっのは明治3年(1870年)11月に開拓使が行なったのがはじめでした。
西郷隆盛が明治4年(1871年)から明治6年(1873年)にかけて士族による北方警備と開拓を主唱。西郷は計画の実現をみることなく下野しましたが、彼の影響で開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官に屯田制を建議しました。
樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且守るときは、開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」というものでした。
黒田が考えたのも士族の活用でしたが、彼の場合は旧松前藩と東北諸藩の貧窮士族を想定していました。
太政官は黒田の提案に賛成し、明治7年(1874年)に屯田兵例則を定めます。
明治8年(1875年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が開始されます。
カテゴリー「琴似屯田兵村」として連載で書いてあります。