生活と任務

屯田兵は単身はダメで家族を連れて入地します。入地前に建てられ用意された「兵屋」なる家と、未開拓の土地とを割り当てられます。

兵屋は一戸建てで村ごとに定まった規格で作られました。

広さは畳敷きの部屋が2部屋、炉を据えた板の間、土間、便所からなり、流し前は板の間あるいは土間におかれました。

 
決して贅沢な間取りではありませんが、当時の一般庶民の住宅よりは良かったといいます。この兵屋を請け負ったのが、現在の伊藤組になります。
 

明治34年(1901年)頃の深川村(現在の深川市)の兵屋では、7, 8月に、室内で、50~60匹のハマダラカ(マラリア原虫を媒介する蚊)を容易に捕獲できましたから、夜間、多数のハマダラカが侵入するような建物でした。

 

兵村は一般の村とは違い集団で入って一つの規律に服したので、実際には村の中の独立した村として機能していました。
兵村には、週番所(明治18年(1886年)に中隊本部と改称)、練兵場、射的場が付属しています。
兵村は他に広大な共有地も持っていました。
屯田兵の生活規則は厳しく、起床と就業の時間が定められ、村を遠く離れる際には上官への申告も必要でした。

軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援に携わりました。
また、国内外の様々な作物を育てる試験農場の役目も兼ねました。
平時は徒歩憲兵に編制されるものと規定されていました(屯田兵例則)。