明治22年(1889)10月18日に移民団が北海道をめざして出発しました。
災害が起きてから二か月後のことです。村人は着の身着のままで持ち物さえろくにありませんでした。しかも神戸までは徒歩での移動。これを見た人は、生涯のうちでこれほど気の毒な人々の群れを見たことがないといったといいます。

「子どもたちはナ、おかァ家へいのう 家へいのういうて泣くのを手をひきながら、もうあそこには家あらへんいうてナ、子どもをあやしあやし歩いていなはる のヤ、坊やなんぼヤいうてきいたら、この子はまだ六つだんネいうて、その母親がいいなはったが、ほんまにいたわしうてな。弟の修治とおない年やないか思うて、わては連れていた修治の着ていた綿入りはんちゃをぬがして、その子に着せてやりました。そしたら、そのおふくろが涙ながして、おうけにおうけにいうて、手え合して、これあったら北海道へいってもこごえ死することないいうて喜びましたのん、おぼえていますが・・・・・・」

以下は小説「北に行く旅人」の文章で抜粋しリライトしています。時代背景がわかります。

移住者が多いので三班に分ける。一班は9月18日、二班は23日と正式に連絡がきた。暗い山道では、ちょうちんを下げて先頭に立つ。ここから山越しに南のほう重里部落に出る。そこで待っておれば、平谷からの本隊が川にそって登るので合流。本隊の先頭は旗を押し立てている。北越戦争に持っていったものであろうか。菱形に十の字の郷旗は色あせていた。

さらに川をさかのぼり、山の尾根にそって北北西へと道をとる。ほぼ一日歩いて神納川にぶち当たり、ここで一泊となる。野宿。ここはまだ村のうちだ。

神納川からがひどい山道になる。聳え立つ伯母子岳のふもとの峠をこえて、この日は野迫川村の大股泊り、三日目の宿が高野山の宿坊となる。
五條までの道が復旧していないから、山の中をぐるりと遠回りして、堺まで歩いていく。そのあいだの山道は百キロではきかない。老人や子どもを連れ、荷物を背負っての旅だ。こうして10月18日からはじまった移民は27日までのあいだに、次々と谷を出ていった。
はじめは2691人が願書を出していたが、このとき出かけた者は600戸、2489人だった。辞退する者があったからだ。これは村の人口の4分の1にあたる。

歩いて堺まで出た後、一行は汽車というものに乗る。汽車で神戸へ出たあと、買い物をするゆとりがあると聞いていた。船に乗ってしまえば、それからはもう東まわりで、一路小樽をめざす。

神戸から乗船した船は相模丸。日本名だが、船長は金髪のイギリス人だった。黒人もいる。

船の中では、野田の母が息をひきとった。野田はほとんど母を背負いながら、山道を越えてきた。それなのに、まだ北海道の土を踏みしめない海上で体力がつきた。あべこべに西中の主婦の一人が女の子を産んだ。

4日を過ぎたいま、移民団は小樽を前にしている。

小樽到着

やがて、波はむらさき色に変わった。もやが晴れていく。丸い山々が近づいてきた。山にまだらに雪がおりていた。奇妙なのは緑がないことだった。すべての木は葉を落として空がすけている。葉をつけた木らしいものが遠くに見えるが、これは黒い。緑色のない風景というのはしんと静かだった。静かなやわらかい山の背中が、空につづいていた。
「山もやっぱりちがうのら。十津川みたいにとがっとらんがな」

上陸はおそろしく時間がかかった。男も女も赤い毛布をかぶった一団が、ぬかるみ道をぞろぞろと宿のほうへ登っていった。ここでまる一日を費やすのは、冬越しに必要な品物をととのえるためだ。あらかたの道具は神戸で用意した。
「11月の初めでこの寒さは、十津川とはえらいちがいやのら」

小樽からの距離はおよそ40里(約160キロ)。そのうち幌内までの26里(104キロ)は汽車が通じていた。幌内で掘り出す石炭を運ぶためである。
のこりの4里が問題だった。ぬかるみのため馬車がとおれない。それに幌内で汽車をおりたとしても、市来知(三笠)の村には小さな宿が三軒しかなかった。
囚人の小屋につめこんでも200人がやっとだ。囚人の監獄は石狩西岸の月形村にあるのだが、労役のために遠くに出る時は、小屋を建てて寝ている。その小屋を借りるわけだ。毎日同じだけの人数が分かれて、小樽をたっていった。

貨車には窓がなかった。石炭の粉だらけの床にむしろを敷いてある。みんなうずくまって膝をかかえた。

この時期、月形村にある樺戸集治監には、2400人に近い囚人が集められていた。大正9年に獄舎が網走へ移っていくまでの50年あまりの間、月形には日本最大の刑務所があったことになる。中でも、この明治22年は最も人数が多かった。囚人は男ばかりで、石炭の採掘と道路の開通工事にしたがっていた。

十津川移民に大量の囚人たちが動員されたのは、政府のあと押しがあったせいだ。三笠から滝川までのあいだ、移民の荷物は3500個をかぞえた。これらがすべて囚人の肩によって運ばれた。
冬のことだ。石狩川が減水して、江別から滝川までの船便が欠航していた。   

写真の菱形に十の字の郷旗は新十津川町の開拓記念館にあります