十津川郷士で幕末時に活躍した前田正之という人が東京におりました。十津川郷が天誅組に取り込まれ政治的に孤立したとき、京から潜行して村に入り、みなを説きまわって縁を切らせ、村を救った人の一人です。

前田正之

戊辰戦争では十津川隊の幹部となり東日本に転戦し、明治後は新政府に加わらず皇宮警察などを務めたが40代でやめ東京で隠居をしていました。
この前田のもとに「十津川郷の過半は再起不能」の報が入ったのは災害が発生した明治22年8月19日未明から10日を過ぎた翌月のはじめでした。

 

 

幕末の革命家たちの視野に入っていたのは当時蝦夷地とよばれた北海道でした。坂本龍馬の思想の核は貿易による近代国家の成立でしたが北海道にも熱中していました。彼は同志を説き、三人の視察者を蝦夷に向かわせており、新政府ができれば浪士たちは無用の存在になるので「みな蝦夷地に渡ろう」と語っていたといいます。京都の十津川屋敷にいた前田もこのことを聞いていたと思います。北海道という場に被災者を移住させ、新天地をつくろうという発想は自然のものだったといえます。

永山武四郎

永山武四郎は明治4年に開拓使官員となり、屯田兵の総司令官を兼ね明治21年には新制度による北海道長官になっていました。
災害があったのはその翌年のことです。永山が東京に来ているという情報を得て、前田正之が永山を訪ねて十津川の一件をたのんだのですが、すぐさまその了承を得たのです。永山は前田を戊辰戦争の時に知っており、幕末における十津川郷の活躍について理解もあったからです。
前田の依頼が9月7日。十津川からの移住者が神戸港から出たのは、その翌月の10月24日でした。

十津川村の大水害が発生した当時、陸軍軍人で北海道長官と第七師団長を兼務していました。今でいえば北海道知事と防衛大臣を兼ねていた人物です。この人がいなければ、集団移住は難しかったと思います。
日本の歴史で、2600人もの人間が一度に移動したのは戦後の引き揚げ船くらいです。