海路で根室に行くこともできました。
箱館の北洋漁業の基を築いた「高田屋嘉兵衛」が活躍したのはこの時代です。
『寛政12年(1800年)3月、手船辰悦丸(1500石積)に乗った高田屋嘉兵衛は、図会船および鯨船4隻を率い、米塩木綿煙草その他雑貨日用品等を満載して「様似(さまに)」に入港した。
近藤重蔵はこれに乗って出帆し、国後島を経て択捉島の丹根萌に上陸した。
ここで近藤は、高田屋嘉兵衛に命じて漁場17ヶ所を開かせ、択捉島全島(アイヌ人口1118人)に郷村の制を創設して斜郡など7郷と25村の名称を定めた。』
太平洋航路は、辰悦丸のような大型でなければ危険でした。
襟裳岬の百人浜は、この沖で遭難した人たちが打ち上げられた浜の名称です。
海流が行き交うことと、襟裳は今でも風速40-50mの突風の岬なのです。
物資の定期便ができるのは金森合名会社が誕生する明治39年まで待たなければなりませんでした。この会社によって函館~釧路線が、ようやく十勝の広尾と大津に寄港として航海されます。
この船で一般募集の開拓民は大津に上陸してきたのです。