高田屋 嘉兵衛(たかたや かへえ)
明和6年1月1日(1769年2月7日) – 文政10年4月5日(1827年4月30日))

江戸時代後期の廻船業者、海商。

 

 

生い立ち

嘉兵衛(幼名は菊弥)が生まれた明和6年(1769)は、北海道に開拓使が置かれる100年前のことです。現在の兵庫県淡路島(洲本市)で8人家族が9坪の小さな家にひしめき合って住んでいたため、長男の嘉兵衛は奉公に出て生活を支えなければなりませんでした。
しかし、彼はこの奉公を喜んでいました。遠くに行くにはそれだけの力を身につけなければならない、嘉兵衛12歳の時でした。奉公先は淡路島で日常雑化を販売しており、ここで品物を売りながら商売のコツを覚えます。この時、嘉兵衛の頭の中には、遠い地域で品物を欲しがっている人々の姿が思い浮かべていました。
「いつかこの島を出て船を操り、遠い地域の人々に必要なものを届けに行こう。それが俺の生き方だ」海に乗り出すためには、海そのものをよく知らなければなりません。漁師の手伝いをし船を操る技術を身に着けていきました。商売と船、この二つの技術を学んだ嘉兵衛は寛政2年(1790年)、22歳の時に郷土を離れ、叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫津に出て回船問屋に身を寄せました。既に弟の嘉蔵が奉公に出ていました。
叔父は酒樽を運ぶ樽廻船の船主をしており、「灘の銘酒」を江戸に運んでいました。
嘉兵衛は船子として働きますが、彼はもっと大きな将来の目標がありました。それは「北前船貿易」でした。船乗りなら誰でも一度は乗ってみたい憧れの船でした。

栖原屋(すはらや)角兵衛との出会い

5年間廻船問屋で働いた後、27歳で念願の北前船に乗ることができました。
嘉兵衛の次の夢は自分の船を持つことでした。蝦夷へ向かう途中、立寄った酒田の港で、手慣れた態度でテキパキと積み荷を処理し、取引にまで的確な助言をする嘉兵衛の存在は、酒田の商人たちの注目を集めました。

この噂が広がった時、彼はこの好機を逃しませんでした。
「誰か、私にお金を貸してください」と商人たちに頼みまわったのです。しかし、誰からも相手にされず諦めて酒田の港を去ろうとした、その最後の夜、嘉兵衛を訪ねてきた人物がおりました。

それは、日本一ともいわれる海の商人、栖原屋(すはらや)角兵衛という人でした。栖原屋は本店を紀州の湯浅に置き、蝦夷の松前に支店を置く、松前藩の御用商人でもありました。

栖原屋は船を造る金を貸してくれたのです。さらに、彼は嘉兵衛にこんな助言をしました。「この酒田で商売をするのもよいが、蝦夷へ行ったほうがいい。そして、松前ではなく、箱館に店を開くといいだろう」後に「海の豪商」といわれた嘉兵衛は、この日の栖原屋角兵衛の一言にあったといえるでしょう。

辰悦丸(しんえつまる)完成

栖原屋(すはらや)角兵衛に借りた金で翌年の寛政9年(1796年)に船は完成しました。嘉兵衛は「辰悦丸(しんえつまる)」と名付け、「高田屋」の看板を上げて兵庫に店を開きました。28歳の時でした。
辰悦丸は兵庫と蝦夷地を往復し、蝦夷が必要としている、米・酒・塩・たばこなどを運ぶことでした。

当時(1800年前後)、ロシアは何度も日本に南下しては侵略する計画を立てていました。嘉兵衛は蝦夷地に来て改めてその情勢を知ります。
幕府は国防を考えるには北の辺境を知る必要があるとし、間宮林蔵や近藤重蔵といった探検家を派遣しました。
特に近藤重蔵は、厚岸から択捉島に渡って調査をしようとしましたが、択捉までのクナシリ海峡は非常に危険で、渡る術がないとわかりました。
ちょうどその時、たまたま厚岸に喜兵衛が来ていたことを知り近藤は喜兵衛を訪ねました。近藤は喜兵衛を海の男と見込んで「俺を択捉島へ渡してくれないか」と頼みます。喜兵衛は近藤の目を見て「本気だ」と感じ、「とにかく海峡を調べなければなりません。その上でお答えしましょう」。

択捉への航路を発見するために、喜兵衛は国後に渡り、潮の流れを読み、ついに1799年当時海流が早く複雑で、航海の難所といわれた国後・択捉間の航路を開くことに成功したのです。

択捉に渡り無事に帰ってきた近藤は嘉兵衛に言いました。
「択捉島に立てた日本国土の柱は、どうせロシア人が来れば、すぐに引っこ抜いてしまうだろう。松前藩に任せておけば、どんどんロシアに取られてしまう。何かいい考えはない」
嘉兵衛は「いっそのこと、蝦夷を幕府直轄になさったらいかがでしょう」
近藤は一介の北前船商人の考えに驚き、「すぐに幕府に報告する」
幕府は「商人にしては珍しく、気骨のある人物」として、1801年に喜兵衛を「蝦夷地御用船頭」に命じました。喜兵衛この時37歳。
腰掛では蝦夷の仕事はできないと判断して、高田屋の本店を兵庫から箱館に移しました。

厚岸や根室、国後での交易をはじめ、新航路を次々と開いた嘉兵衛は、択捉に漁場を17カ所置き、高田屋を発展させていきます。彼は、働く人々に生産量に応じて利益を公平に分け合い、取り扱う商品の品質管理を厳密に行ったため、幕府や地域の人々から絶大な信用を得て、瞬く間に豪商と呼ばれるようにまでなりました。

しかし、巨万の富を一代で築いたにもかかわらず、嘉兵衛はそれを独占することなく、道路の改修・開墾・植林・港での養殖や漁具の改良など、地元箱館に貢献していきます。また、自費で港を埋め立てて造船所を作り、1806年、箱館の大火の時には、焼け出された人々に物資を与え、木材や日用品を元値で販売し、今後の防災のためにと井戸を掘り、ポンプを寄贈するといったことまで行いました。
嘉兵衛の財産は全て地域の発展のために使われたため、個人で所有する田畑などはほとんどありませんでした。

不運は突然襲いました。
1812年、嘉兵衛44歳の夏でした。択捉島から海産物を積み込んで、箱館へ帰る途中、辰悦丸の一行はロシアの軍艦ディアナ号に捕らえられてしまったのです。
その理由は一年前に起きたゴローニン事件でした。嘉兵衛と対面したリコルドは、片言の日本語で「この船には日本人の漂流民を数人乗せている。日本に返しに来たが役人は一向に受け付けない。あなたが間に入って、この交渉の役をしてくれないか」。嘉兵衛は「船に抑留されている漂流民をすくに開放してください。その代わり、私がそのまま人質になります」申し入れは承諾され、続いてリコルドは質問しました。
「ゴローニン艦長は殺されたのか」「彼は、松前に送られて監禁されている。待遇は国後で捕らえられた時よりいいはずです」
この話をリコロドが半信半疑に思っている事を見抜いた嘉兵衛は、自分の刀を抜いてテーブルの上に置きました。「嘘だと思うなら、その刀で私の首を切り落としなさい」嘉兵衛の気迫に圧倒され、この男は嘘を言っていないとリコルドは信じました。

リコルドは、カムチャツカの基地に戻るので、私の上司にゴローニン艦長が無事だということを伝えていただきたい。嘉兵衛はリコルドが国後島をいきなり攻撃しないで、まず事実を国に報告して上司の指示を仰ごうという冷静さに信頼を覚えました。
嘉兵衛は、カムチャツカに連行される前、覚悟を決めて遺書を書きました。幕府には「このたび、ロシア船に捕らえられました。しかし、両国の和平だけを大切に考えて取り計らうつもりでございます」そして家族には「異国に行っても相変わらず商売には精を出すつもりだ。お世話になった人たちには、私に代わってよくお礼を申し上げてほしい」と、自分の身にこれから起きる危険については、一切書きませんでした。

8月、カムチャツカに到着した嘉兵衛は、あまりの寒さに驚きました。吹雪のひどい時には、井戸まで雪が埋め尽くされて水も飲めない状態でした。
嘉兵衛はロシア語を学び始め、20日もたつと日常会話に困らないほどになりました。更に、リコルドと行動を共にすることが多かったので、お互いの間に深い友情が芽生えていました。
そうして、港の氷が溶け始めた5月、ついにリコルドの上司であるイルクーツク総督に会見することになりました。
「日本とロシア両国の間に不快なことが発生し誠にお気の毒です。勝手に日本を攻撃した者は逮捕し、二度と上陸を許さないように措置しました。ゴローニンの件に関して、リコルドもあなた以外に頼りにできる人はいないと申しています。ゴローニンが無事に返されるよう、ご尽力をお願いします」

こうして嘉兵衛は、8カ月間の抑留生活を終えて、ロシア側の信頼を得て日本に帰国することができたのです。国後島に着くと、役人が迎えに飛んできました。
そうして、幕府からの手紙を嘉兵衛に見せました。それには「もしロシア側が乱暴を謝罪するならば、今捕らえてあるロシア人は無事に帰国させる」と書いてありました。嘉兵衛は、「今まさに私が持っているのが、その謝罪状でございます」とリコルドの文書を差し出しました。

こうして、ゴローニン事件の解決は、嘉兵衛が捕らえられたちょうど1年後の1813年ゴローニンは釈放され、リコルドの乗ったディアナ号に引き取られました。
別れの際、リコルドは嘉兵衛にこう言い残しました。
「今後、あらゆる海域で高田屋の旗を掲げる船に出会ったら、ロシア船は赤い旗を掲げて応答します。それは、あなたの船をロシア船は絶対に襲わないという合図です」

しかし、嘉兵衛はこのロシア抑留生活で、体を壊していました。そのため5年後49歳で箱館の店と高田屋の事業すべてを弟に譲り、故郷の淡路島で亡くなるまでの10年間を送りました。

高田屋のその後

高田屋は弟・金兵衛が跡を継ぎ、文政4年(1821年)に蝦夷地が松前藩に返された後、松前藩の御用商人となり、文政7年には箱館に本店を移しました。
しかし、嘉兵衛の死から6年後の天保4年(1833年)に、幕府からロシアとの密貿易の疑いをかけられました。評定所での審問の結果、密貿易の嫌疑は晴れたものの、ゴローニン事件のときに嘉兵衛がロシア側と取り決めた「旗合わせ」(高田屋の船がロシア船と遭遇した際、高田屋の船を襲撃することを避けるため、高田屋が店印の小旗を出し、それに対しロシア船が赤旗を出し、相手を確認するもの)を隠していたことを咎められ、闕所および所払いの処分となり、高田屋は没落しました。